徒然すぎて草。

ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん

対アイヤイで揉めたくないならユキを使え

今朝、Twitter界隈で新しい火種を見つけました。

それは、

「対アイヤイ側のダメージ把握」に関する問題です。

アイヤイは連続攻撃による大量ダメージを叩き出すという特徴を持ち、

攻撃のたびに非公開領域からエナが増えて、バニッシュで場からシグニが消え……

という独特な動きをするため、

アイヤイを握ったことのない人からすると、

「とりあえず大量のダメージは食らうんだろうし、計算しなきゃなんだけど、

頭の中がこんがらがるから相手にフィーリングで教えてもらったらありがたいな」

ぐらいのメンタルを抱いていることはままあるかと思います。

そもそも握りなれていないデッキのカードの効果をいちいち読んで、

使い慣れていない思考回路を回転させるのは疲れますし、

一言で切り捨てるなら「七面倒」ですからね。

 

こうしたメンタルは競技としてウィクロスをプレイする際には

「甘え」でありましょうが、

逆に考えればカードゲームは何であれ「たかがゲーム」です(賞金大会は除く)。

競技としてのプレイヤーとゲームとしてのプレイヤーの間に隔たる

認識の壁はともすると

ガチ勢・TP・有力プレイヤー側は

「プールぐらい把握して計算しろよタコ」と思うかもしれませんし、

そういう態度は発言に上った途端に高圧的に見えるものですから、

そうと「感じた」カジュアル勢は

「ブロガー・TP様がそんなに偉いのか」

という、人間性みたいなものをあげつらう、

「問題の根本とはかい離した部分」で炎上することもあるのでしょう。

が、これは文字通り不毛です。

一方はプレイヤーとしてどうかという点で詰り、

一方は人間としてどうかという点で詰っているのですから、

彼らは永遠に分かり合えません。……悲しい()

 

そもそも、ウィクロスの界隈は暁タマや黒点しかり、

キャラゲーであるという側面からガチ勢カジュアル勢の間でとかく燃えやすく、

今回もそうした側面の延長にあるんじゃないかなって思っています。

私はどちらの言い分にも興味がないし、

たかだかゲームのことについて苛々するのは本末転倒だと思うものですから、

双方が互いに傷を少なめにして終わる方法を提示しようかと思います。

今回の記事はそのために書いたのですよ。

 

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ユキを使え。

 

これが全てです。

先攻を取ればルーブルで相手の連続攻撃を封殺でき、

後攻になってもペイルに乗っていればアーツを気兼ねなく撃てる。

つまり七面倒なダメージ計算を省くことが出来る。

最高だな?

え? ルーブルの裁定覚えるのが面倒くさい?

自分の使うカード位は覚えましょう。

相手のことを考えることを放棄するなら、せめて自分のことは知っておきましょう。

とはいえ、私もたまに間違えますけどね。

 

皆さん、健全で楽しいウィクロスライフを~

 

それでは~。

祝祭と書いてカーニバルと読む

お久しぶりです。

色々とアニメやらtvkで再放送やってる「ウルトラセブン

の感想とか書きたかったんですが、

二月の頭からバイトをガンガン入れているのと

小説を書いていたせいでこっちに全く手が出せなかった。

あと、ウィクロスも年明けから殆どやっていなくてですね、

ついこの間、大会に出ました。

あーやを貸してくれたあの人に感謝。

 

さて、今回は明日に新弾と新デッキの発売が控えているということで、

カーニバルについての所感を書いていきたいと思います。

実用編

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エロい。(確信)

巨乳で太もも引き締まってて顔隠してるとか

全身がエロスの塊なんだ、この人。

余談ですが、私にとっての女性の一番美しい姿は

後ろ姿」であると思っていて、それはなぜかというと、

後ろ姿は輪郭であり、顔やその他のパーツに関する想像の余地が

残されているがゆえに、その後ろ姿に自らの理想を投影できるからです。

つまり、隠れて見えない限りその女性は常に自分の理想であり続ける、

私個人にとっての女性のイデア像を感じ取れる究極の美であるわけです。

常々、私は「女性の前半分はいらない」と公言して憚りませんが、

ことカーニバルについても同じようなことを思っています。

極論、顔いらんのよ(暴言)。

もちろん、仮面取った顔も美人なんですけどね、

それを取った時点で理想とかい離することに耐えられないんですな。

多分、組むとしたらノーマルのLR買います。

性能編

さて、茶番はこれまでにして、今度は性能面に行きましょう。

カーニバルの限定がついているのは赤の宇宙シグニで、

LBつきとLBなしでそれぞれ、

・ライフを参照する「シーソーゲーム」を構築するピーキーなカード群

・確定でアドを取るか、強力なアタックトリガー

といった特徴を持っているように見受けられます。

中でも、

《羅星≣タイトツ≣》のアタックトリガーは位置とシグニレベルを参照するとはいえ、

カーニバルのプールの中では最強といってもいいくらいの強力な能力で、

ことレベル4以下のシグニをバニッシュすることにおいては、

盤面さえそろえればアド損をしないという点から見て、

あのダイホウイカ様を超えるポテンシャルを有していると思っています。

しかも、カーニバルの赤宇宙のLB付きカードプールはかなり貧弱で

あまり入れる価値を見いだせないカードが多く、

(強いて言うならレベル5シグニ対策にテンドウ入れておきたいくらい)

カーニバルの限定プールでは不足しがちな

相手のシグニ除去というポイントを補ってくれる

強力なアーツである《アイスフレイムシュート》を打つための

エナコストにもなるダイホウイカを入れることすら視野になる

現状では、ダイホウイカが実質5枚以上入れられる計算になる……

気がします。

また、通しでみると限定の付いた赤いカードはさほど強くなく、

(ソラフレアは強いと思ってます)

限定に囚われない構築をせよ、というウィクロス開発部の思惑が透けて見えるようで、

その辺りはデッキビルダーとしての腕前を試される、とてもよいルリグだと思います。

なにせ序盤のアド取りが貧弱。

見込みのあるアンタレス(赤)は

相手の場にドローの可否を左右されるという貧弱ぶり。

期待を持てるのはデネキュしかいない。

そしてレベル参照をする能力持ちのシグニのために、

単体ではアドを取らないレベル変動シグニを入れることも視野になりかねない

というジレンマが頭の裏をかすめるプールになっている。

この辺りはちょっと欠陥と言えなくもなさそうですが、

まあ何とかして使いこなしてみましょう。

諦めなければどうにかなる……はず。

 

ルリグの効果はかなり攻撃によっていて、

Qの方はアドを取るかダブルクラッシュを取るかが出来る上に

「効果を受けない」テキストのお陰で、

通常のルリグ止めアーツが意味を成さない素敵仕様。

QAの方はシグニに効果を付与する能力とコインベットでのアド取り能力で、

臨機応変なゲームの展開をやっていけそうと思います。

まぁ、ヴェルサ立てられるとどうしようもないんですけどね。

まとめ

強いけど、ウィクロスのゲーム性的には環境取れる気はしないなー、

っていうのが正直な印象。

相手のリソースを枯らさない、

見た目に反してかなり正統派な戦い方をするルリグです。

一見ギャンブルに見えるデッキトップ参照効果も、

「任意のレベルにする」という予防線を張るシグニのお陰で、

ギャンブル性を薄めており、その辺りギャップを感じさせます。

こうして考えると、カーニバルさんは

大胆に見えて狡猾であるとか、

悪ぶっているだけのただのいい子ちゃんであるとか、

そんな二面性を感じさせるルリグですね。

魅力的だ。とてもいい。

ただし、仮面は外さないでくれ。

「天下り」の天とは。

常々、「天下り」という単語について思っていることがある。

それは、天下りという単語そのものがなんというか、

実態に反して高貴な感じを漂わせているということだ。

天とは天上人、すなわち広義で言えば神であり、

それが下るということは、

日本神話的解釈で「天孫降臨」になぞらえられる

現人神の現出であると言えなくもない。

高級官僚というとこの日本においては

エリート、いけ好かない存在、白痴にして暴利を貪る伏魔殿の住人

といったイメージでとらえられることが多いように感じられる。

そこまで悪いイメージとはいかずとも、

「おじいちゃんが官僚だったから私もそうなりました」

と公言してはばからず意志を感じさせない人間もいるにはいる。

が、官僚の中には真剣に日本の将来について考えた結果、

物事を動かせるエリート路線を選んだという、

志高い人間もきっといることだろう。

そうであると信じたいし、そうでなかったらこの国は今ごろもっと、

ソドムの市もかくやと言わんばかりの悪逆に満ち溢れていることと思う。

とはいえ、志高い人間は所詮人間である。

神と呼ぶにふさわしい存在は人柱か死人だけであり、

天と呼ぶのはいささかやりすぎな気がする。

生きた人間につけるにふさわしい称号は

せいぜい、超人か英雄くらいだろう。

ましてや、「天下り」の利益にあやかる人間はどうか?

天と呼ぶにふさわしいか?

下ることで何の利益をもたらすのか?

人々の憎悪と嫉妬、軽蔑を一身に浴び、

なお強欲と暴食に身をやつす「存在」がいるとすれば、

それはもはや神ではない。邪神ですらない。

邪神には邪神なりのカリスマがある。

しかして、「存在」は人を狂信に駆り立てる権能を持たない。

それは金と権力にまみれ、堕ちるものだ。

負の概念の吹き溜まりは穢れと捉えられる。

故に、「天下り」などではなく実態は「ケガレ堕ち」

とすら思うのだが、これはきっと流行らないだろう。

というか私自身、あまり流行っては欲しくない。

あまりに宗教色が強すぎるし、単語そのものが呪詛を放っている。

古くから、人を呪わば穴二つと言う。

ただでさえ自分が上に上がるのではなく

他人を下に降ろすことに正当性と快感を覚える傾向の強い

日本人のパーソナリティーにおいて、

呪詛は弾みが付けばひどいレベルで氾濫するだろう。

丁度、強い否定の言葉が流行ればどうなるかは、海の向こう側、

偉大なる(白人のための)国家を取り戻すと公言した国に住む、

言葉に影響されやすい「善人たち」が

都市の真ん中や空港のロビーでよき例を見せてくれている。

しかし、私を含め多くの人間は歴史から何も学ばないし、

経験からすら自分自身が身に染みなければ大した教訓を得ない生物だ。

日本人(特に地位の高い人間ほど)はなぜか、

白人のやることに追従したがる性質を持っているように見受けられるため、

この国でも遠からず似たような出来事は起こるのではないかと

考えているが、果たしてどうなるかはその時になってのお楽しみである。

 

性癖の香りがする「じゅうりょう」事件への解釈

徒然記事です。

去年のクリスマスのあたりから東京と千葉のあたりで起こっている、

自転車盗難事件に関する、端的な感想を垂れ流すだけの記事です。

事件について知らない人のために概要を言うと、

盗難自転車の情報共有サイトに、

バラバラに切断した自転車の画像を貼り付け、

じゅうりょう:××グラム

と付け加えて被害者を挑発しているかのようだ、という一連の事件です。

「自転車盗難事件 じゅうりょう」とググれば出るはず。

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ARタトゥー産業への軽い考察

皆さんはARという言葉をご存じだろうか。

オーグメンテッド・リアリティ、つまりは拡張現実を指す言葉である。

今日はふと、小説に使うネタを考えているときに、

こんなAR産業が出てくるかもなあ、と思ったのでそのメモ書きをする。

思いついたのは、呼んでタイトルのごとく、

「ARタトゥー産業」。

タトゥーというと普通、一度入れると二度と除去の出来ない

親不孝の代名詞として日本で扱われるのと共に、

性風俗の観点で一つのジャンルになっている分野だと思う。

タトゥーの持っている欠点は不可逆性と絵柄の変更が効かない点で、

(消えない点を利用して烙印として使用するアブノーマルな例もあるのだろうが)

これにテクノロジーを利用すれば、もっとカジュアルに広がっていくんじゃないかと思う。

具体的な使用法としては、対象となる人の体系を3DCGモデリングして、

ちょうど表面に模様が貼りついているように見せるといった手法だ。

これは決して不可能な技術ではないと思う。

柄はダウンロードの従量課金制で販売すればいい。

ラのつくホテル産業がこういうものをアクセントとして導入するのも、

そういうコンセプトの店なら十分採用圏内なのではないかと思うのだがどうだろう。

 

とはいえ、今はハードがゴテゴテして見栄えも悪いので、

コンタクトレンズのレベルにまでハードが軽量化・縮小されたら

現実的なものになるのではないか。

……正直、そういうものを扱う環境に居ないので、

実現されようとされるまいと結構どうでもいい感がしてならないのだが。

必要は学習の父

「必要は発明の母」

という言葉がある。

物事をクリアする必要があって初めて、新しい発想が生まれて実用化される、

そんな言葉だ。

思うに、人類はこのルーチンによって毛深いサルから着々と進歩してきたのだろうし、

頭脳労働が駆逐される未来――つまり人間が人間である価値を失うまでにおいて、

世界はそのように回っていくだろう。

最近、私は似たようなことを経験した。

「必要は学習の父」だ。

必要は発明の母なのに学習の父でもあるのか? と思われた方は、

必要という概念に、次にあげる言葉のどれかを当てはめるといい。

アンドロギュヌス半陰陽ふたなり、男の娘……

今、妙な言い回しをした弁解をする「必要」があったために、

必要という概念に奇怪な性別を当てはめる思考法が「発明」されたわけだ。

必要という概念は男の娘である。しかも子持ちだ。

どんどん使ってくれて構わない。

さて、本論に戻ろう。

人間は何かをする必要があると感じると、学習効率が上がる、という話だ。

試験のため、資格のため、レポート・論文の字数を増やすため、

人はいやが応にも何かを学び、吸収し、一定の結果を残さなければならない

タイミングというものが存在する。

それは例えば、2年前に習熟を諦めたゲーム理論の分野を、

論文の字数を増やすために泣きそうな思いをしながら勉強する、

といったことだったりする。

思うに、たいていの人間は

「出来なくても、やらなくても死にはしない」

物事について深く考えられるほど上等に出来ていない。

私もそうだ。

あれこれ理屈をつけて理解を拒み、

期末考査を2日後に控えていながらアニメを見て、

挙句最終話でボロ泣きする気持ち悪いヲタクがいたのだ。

(ちなみに見ていたのはSolty Reiという作品だ。

OPのcloverという曲が最高だからぜひ聴いてほしい。)

案の定、試験の結果はまあ散々だったし、

ゲーム理論とかいう名前だけは妙に面白そうな分野になど

2度と触れるものかと思っていたのだが、運命は皮肉なものである。

文章を書くためには、最低限理解をしていなければならない。

それがたとえ一度は諦めた分野でも、だ。

 

……かくして、諸々の作業を終え、私はいま人生そのもので

一息ついているような感覚を覚えながらこうして記事を書いている。

 

補遺:必要があると分かっていても動けないのも人間

私は常々、人間というものをあまり信用していない。

「痩せなきゃ~」とか言っている女子大生は

メロンパンを平気で食べているし、

単位……単位……と乞食のような呻き声を漏らす学生は

たいてい、マトモに勉強していない。

本を読む時間がないよ~、という人間は

胡乱な目つきでSNSやソシャゲをやっている。

これは電車で多く見られる。

かくいう私も、

「幸福になるために何も考えないぞ!」と、

絶えず取り留めのない思考をこねる救いようもない生物だ。

 

世の成功者たちは「強い意志があれば何でもできる!」という。

それはそうだ。

強い意志はなにものをも可能にする力があるだろう。

真理だ。彼らは真理に至っているのだ。

が、それに至る人間の絶対数が多くないことを

我々は経験則から知っている。

必要を感じても「死にはしない」ので動かないのが

人間のスタンダードである。

かといって、死の危機に瀕したら人間は動くのか、と問われると、

それは確かにそうかもしれないが、生きにくい世の中なのは間違いない。

問題を常に解決することを求められる世界では、

一握りの人間しか生きていくことは出来ないだろうし、

もしそんな世界になれば百を数えるうちに人類は種として死に絶える気がする。

つまり、必要があっても動けない人間が大半を占め、

とりあえず生きてはいられる今の世の中、

というかこの国は実はとても平和だといえる。

もちろん、ずっと同じ日が永遠に続くわけではないのだが。

卒論なるものについて

どっきりどっきり卒論

不思議な論旨が湧いたらどーしよ?(どーする?)

びっくりびっくり検証

有意な結果が出たならいーでしょ?(いいよね?)

きっと毎日が〆切日

製本屋さんはお休み

不都合なデータは全部ゴミ箱に捨てちゃえ~

 

こんなことを書いていますがちゃんとやっていますしきっと大丈夫。