大学の同窓会に行った話
友達が少ないのに大学の同窓会に行った
先日、大学公認の同窓会なるものに行ってきた。
新しい知り合いを作りがてら、名刺でも交換出来ればな、くらいの感覚でいた。
ところが、いざ行ってみると、同窓会の場に名刺を持ってきている人間の少ないこと少ないこと。
およそ3時間程度を、知らない人間やほぼ接点のなかった人間との世間話に費やし(二次会は友達の友達、くらいの関係の人と話をしていたが)、そうして得られた名刺はたったの4枚だった。
その話を職場の人にしたら、「地獄のような時間だな」と言われ、その一瞬はよく意味が分からなかった。
だが、よくよく考えたら「新しい人間に会うために同窓会に行く」という行為が全くもって謎である。
行為のちぐはぐさで言えば、「彼女を作るためにおっぱいパブに行く」くらい謎だ。
そりゃ女の子との出会いはあるだろうけども、という話になる。
おっパブの女の子を彼女に出来るかと言ったら、まぁ脈はないだろう。
実際、同窓会の収穫もそんな感じで、収穫と呼べる収穫は名刺4枚と下記の記事を読んでくださっていたフォロワーが増えたこと、そしてうっすい繋がりのFacebookの友達が増えた程度である。
↓問題の記事
persona-kaza310.hatenablog.com
大学時代の人間関係→社会人生活へのインポート
さて、同窓会の結果はさておき、同窓会の間に感じたことでも書き綴っておこうと思う。
今回、あの場に居て一番強く感じたのは、
同じ大学の出身者が多くいる企業に就職すると、それまでの人間関係が多少なりとも持ち越される
というものだった。
私の行っていた大学を卒業した人間が行く企業は大抵、以下のパターンに分けられる。
・商社
・銀行・証券の営業
・銀行・証券系のシンクタンク
・マスコミ系
・(少数だが)SE
この中の赤字で書いた商社と銀行というのが特に、採用人数が多いこともあっていわゆる学閥なるものを形成するようで、同じ大学出身者同士の結びつきが強く、同期はもちろんのこと、先輩後輩の関係まで持ち越されて、下の立場の者はさらに下の立場の人間が出来るまで、飲み会の幹事をやらされるのだという。
(サンプル数が数人なので、どこもかしこもこうした文化を持っているわけではないのかもしれない)
私はというと、就活で銀行などは受けたもののことごとく落ちて、今はITの方で働いている。上下の立場で飲み会の幹事をやらされることもそうないので、上記の文化とは完全に外側のポジションにいる(と思う)。
そうなってくると、私が経験する社会人のはじめの数年と、彼らの経験する数年は異質なものになると言えはしないだろうか。
これはどちらがより優れているということでもなくて、単純にそれぞれの環境で育った人間がその後どういう生き方をするか、という問題に過ぎない。
彼らは上司部下・先輩後輩という人間関係の中で、より強かに生きる術を学び、時に明文化されない組織の論理に身をやつすことがあるかもしれない。
私はといえば、それなりにフワフワとモノをやらせてもらいながら、ふと大事な時に「君、幹事くらいはちゃんとやろうよ」などと言われることになるかもしれない。
人間は共通の幻想を抱いている者をより仲間だと認識しやすく、共通の幻想を抱いていると見せるためには、その幻想に身を捧げていることを態度で示すことが手っ取り早い。
たまに身を捧げているのと、せっせと事あるごとに身を捧げているのとではどちらが仲間だと認めてもらいやすいかと言えばそれは間違いなく後者である。
さらに言えば、会社に所属する人間というのは根本的に、組織の力を借りなければ自立が出来ない弱い存在であり、その弱い存在がどうやって組織に生かしてもらうのかと言えば、それはコミュニケーション力がモノを言う。
コミュニケーション力とは、単に口で上手いことを言うだけでなく、表現方法に関わらず相手に伝えるべきことを伝える能力である。だから態度で示せるものがあるなら、常日頃そうしたことに慣らしておくのも決して悪いことではないだろう。
ただし、それは心身が壊れない範囲で、という注釈がつく。
二次会でしこたま飲まされていた商社の女の子
二次会で友人とさらにその友人と話していて、ふと、周りが気になった。
というか、気にせざるを得なかった。
というのも、おそらくは運動部の部員であったろう一団が、童謡「さんぽ」のフレーズで飲みのコールをしていたのだ。
かなり謎な文化だと思ったがそれはそれ。靴下が文化なら足袋も文化である。でも元気なのは分かったから少し静かにしてほしい。
気になったのは男女問わずめちゃくちゃ飲まされていたことだ。
特に同窓会の幹事をやっていた女の子は元々ノリがいいと知られていたのだろうが、飲まされ方が尋常じゃなく、最後の方は階段に座り込んでいた。
遂には部員が止めたタクシーに乗って夜の街に消えて行ったのでその後は知らないが、あの大学のメンバーなのでどうせ大したことは出来ないだろう。というかそうであることを願う。
これを見て思ったのは、明文化されていないルール(その場のノリとかそういうの)が強い力を持つ組織に居ると、時に自分のキャパシティを超えて、組織に身を捧げるような行為を強要されるリスクがあるということだ。
そうした組織が、私のいる会社と彼らの行った会社のどちらに多く見られるかなどは一目瞭然で、出世競争もそうしたリスクやストレスにどれだけ耐えられるかの勝負になることは明白である。
リスク・ストレスへの耐性を持つこと自体は全く悪いことじゃないし、それで出世をして判断を下す立場に上るなら、それは価値のある能力の一つだ。だが、それに耐えられず脱落した者は悲惨である。なぜなら、脱落者はそうした外的な刺激に再起不能かあるいはそれに近いレベルで曝され、耐えきれなくなった段階で日陰に打ち捨てられるのだから。
勝つ自信があって覚悟を持ってその道を進むのなら止めはしないが、そんな覚悟を持って生きている人間など、彼らのうちどれほどいるのだろう、などとふと思ってしまう。
私は常々、この世で成功する秘訣は、「他人から不平を言われない程度に他人の努力の上前をピンハネすること」だと思っているが、思っていることと、それを実践できるかどうかは全く別の問題だ。(ちなみに、今、この国の若者の賃金を巡るあれやこれやは結構ギリギリなラインを攻めてきていると思う)
仮に二次会で潰されたとしても、知った仲の元部員がタクシーでどこかへ連れて行ってくれるかもしれない(その先がどうかは知らないが)。
だが、心身が壊れるまで何かに曝された人間を、何が救えるというのか。
何はどうあれ、誇れる生き方を
ここまで、たかが大学の同窓会に行った程度でつらつらとモノを語ってしまったが、ここに書いたことが真理かと言えばそうではない。
せいぜいが私のお気持ちをつづった程度のことなので、そういう考え方もあるよね、程度に受け流して、それでも何か感じるところがあってあなたの何かを変えたなら、それほど幸せなことはない。
結局のところ、私がどうしようと、彼らがどうしようと、本人がそれでいい、と思えること、大事なことはせいぜいこれくらいしかない。
今の私はと言えば、覚えること、やること、手間の割に、給料が見合っていない上に社長・経営陣からは甘く見られているようで癪に障る仕事をやっているが、
明日から私やめますと言えば、プロジェクト丸ごとが立ち行かなることが分かっているので、そうした精神状態で仕事をするのは案外バランスが取れているようで、それなりに楽しい。
後は数年後、「あんな経験して、役に立ったな」などと言えていれば最高なのだが、それはこれからの話になる。
この記事を読んでくださったあなたも、組織との関係性がどうあれ、幸せに生きられればいいと願っている。
オタクに一般人とのカラオケは難しい
今日、なんやかんやあって職場の人(オタクじゃない、一般人だ)とカラオケに行くことになった。
すると、ある重要な事実が鎌首をもたげるのだった。
歌える曲がない
私自身はカラオケに行くのが好きだし、時間さえあれば週に一度はヒトカラに行ったっていいくらいのマインドである。そのため、実際に二週に一度くらいのペースで近所の古びたカラオケボックスに通っては一時間半ほど歌っている。
こちらは店員の顔を覚えているし、店員も私の顔を覚えていることだろう。深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ。
一人のカラオケはいい。「さくらんぼキッス」だって裏声で歌えるし、真夏に中島美嘉の「雪の華」を歌うことだって出来る。初っ端からこの腐敗した世界に落とされたことについて嘆き、その後、DV彼氏の陰におびえる女の心情を歌うことも出来る。
だが、これを集団でいるときに、まして一般人といるときにやるのは非常に危険だ。頭のおかしい人か、ちょっとメンタルを故障してしまった人だと思われる。
私のレパートリーはだいたい、以下のパターンに分かれる。
・親の横で聞いていた福山雅治
・高1の頃からハマったBUCK-TICK(分からない人はアニメ「屍鬼」のOPを聞こう)
・一時期なぜか練習していた島谷ひとみ数曲
・歌い慣れてしまった鬼束ちひろの「月光」、「眩暈」
・ポルノグラフィティ数曲
・その他の曲(アニメ曲が大半)
当然、このレパートリーでは福山雅治、辛うじて島谷ひとみが分かってもらえるくらいになる。
鬼束ちひろの「月光」は有名だが歌うとちょっとマズい(今日、歌うぞ!? 歌いますよ!? と言ったら全力で拒否された)。
また、福山雅治も今でこそ大御所と化している感はあるが、じゃあどんな曲が知られているかと言うと、あまり知名度がある印象がない。これはファンクラブ会員の母の談だが、「福山雅治ぅ? 桜坂でしょ?(笑)」と、バカにされたような反応をされることが多いのだという。
ちなみに最近の福山雅治はとりあえずビールだとか、攻めとか受けとかについて歌っている。詳しくは「とりビー」とか「聖域」を聞いてほしい。おそらく、とりあえずビールとか言っていた時期は疲れていたのだろうと思う。あと、「HUMAN」もいい。
そんなこんなで、一般人様よりカラオケで過ごしている時間が長いにもかかわらず、私には一般人様と同席する高々2時間かそこらのカラオケを乗り切るだけのレパートリーもないのである。
付け焼刃の米津玄師やスピッツも出来なくはないが非常に苦しい。
前者は「LOSER」しか歌えないし、後者は「ロビンソン」しか音程が出ない。
そして最後の砦は「壊れかけのRadio」だ。いつの時代だよ。
また、季節性の問題もある。
真夏に「雪の華」を歌うのは狂気の沙汰に等しい。
真冬に「ミュージック・アワー」を歌えば「オーストラリアにでも行ってきたの?」と聞かれること必至だろう。
あと、季節を明言していないがなんとなく春・秋っぽい曲も存在して、その辺を気にしだすとキリがない。
その点、アニソンなどはシチュエーションが限定されてでもいない限り、年中歌うことのできる万能さが非常に重宝する。僕らはいつだってレールガンを放つことが出来るし、乾いた心で駆け抜けることが出来るのだ。
こうした歌えるレパートリーがない人間の苦悩は、他の人が歌っている時間にも続く。
周りが知っている曲が分からない
これは今日、何度もあったことなのだが、「あー! ○○! 中学の時に流行ってた!」と他の人が反応しているのを見て、私は一人首をひねる。
何をどう思い出してもそんな曲が流行っていた記憶がないのだ。
その人とと自分は2つ程度しか歳が変わらない。であれば、知っていてもおかしくはないはずなのだが、やはり知らないものは知らない。
そして、私が怪訝な顔をしているのを周りが見てそのうち、「どの曲ならコイツは知っているのかテスト」が始まる。当然、私は知らない。歌手やグループの名前には見覚えはあるが、フレーズはどれも馴染みのないものだった。
こうしたことが何回か続いていくうち、一つの疑念が浮かんだ。
私は山にでも籠っていたのか?
そうでもなければ説明がつかない。
だが、どう考えても山で人と話すことなく暮らしたいと思うことはあっても、実際そうしたことはかつてなかったし、なぜか練習していた島谷ひとみの曲は大学のレポートを書きながら聞いていたのだ。
早い話、私が山に籠っていたかどうかなどというトンチキなことを考えるよりもまず、一般人が興味を持つ部分に、私が興味や関心を殆ど示さずに生きているのが原因である。それ以上でもそれ以下でもない。
周りがAKBやら流行りのバンドやらを聞いている間にBUCK-TICKの「惡の華」を聞いていたし、クラスの連中が何かしらのドラマを見ている間に、私は「佐天さんは俺の嫁!w」とか言っていたのである。
一般人様とのカラオケの席にいるためには、これらの態度を改めなくてはならなさそうだ。無理である。それが出来たらとっくにそうしている。
私にできるのはせいぜい、メジャーどころがアニソンを出しているところから徐々に掘っていくくらいである。
カラオケのその後
ふと、私は思い切って聞いてみた。
「実際、聞いてみて『ヒトカラが趣味』とかいう割にコイツ大したことねーなとか思われていたらショックなんじゃが」
これに対し、同僚は言った。
「ヒトカラ行ってるだけあって、やっぱり上手いなって思うことあるよ。でもその腕は鬼束ちひろじゃなくてもっと別なところに生かすべきだと思う」
圧倒的正論である。今後、一般人に受け入れられやすいレパートリーづくりが必要であると強く感じた一日だった。
近頃、椎名林檎でも練習するかと思っていたが、その方針は転換した方がよさそうである。
黒ニンニクとかいう食材
突然だが。
黒ニンニクという食材が苦手だった。
ニンニクをいい感じに発酵させたこの物体は、滋養強壮・スタミナ増強という効用を持つと言われ、食材としては以下の特徴を持つ。
・酸味
・ニンニクの風味
・ねっとりした食感
お分かりだろうか。生で食べるにはあまりおいしくないのだ。
薬として食べるにも、後味のニンニク風味による圧倒的な”キツさ”が邪魔をする。
そこで思った。
食材としても薬としても口に入れることが厳しいなら、わき役として使用すればいい。
調味料としての活路を見出すしかない。
そう思うと黒ニンニクという物体に対する見方が変わった。
ニンニクの風味がついている、固形の酢。
そう思えば料理に使うイメージも湧いてくる。
黒ニンニクを潰して、醤油や味噌といった塩気のある調味料と合えれば、少しさわやかな風味の味付けが出来る。
おいしい料理の要素であるニンニクの風味も何となくだがつく。
惜しむらくは、生のニンニクを油で炒めた時の香ばしさがあまり出ないことだが。
割とこれは致命的な弱点のように思えるが、香ばしさがあまり重要視されない汁物のような料理に使えばいいのでは、という気がする。
人間を生産しろ
コラムから出た思想
今日、カレー沢薫メシアが子育てに関するコラムを書いているのを見た。
突然カレー沢薫メシアとか言われてうわコイツどうしたんだ、と思った人のために補足をしておく。
カレー沢薫とは、かつてモーニングでプロレタリアート系猫漫画『クレムリン』や、ゴラクで「ねこもくわない」などを連載した経験を持ち、最近では各地のサイトでコラムを書いている、漫画家・コラムニストである。
気になった人はどんな人かググってみてほしい。
さて、子育てに関するコラムの話に戻る。
内容は大まかに言って、
現代の日本で子供を産むというのは、入れるかも分からない「保育園ガチャ」という博打に挑まなければならない上、少子化という問題の解決に貢献しているにも拘らず、産んでいない人間からなぜか白い目で見られる行為なのだ、
というものだった(はずだ)。
私はこれを読んで、「やはり人類は工業的に、一個体いくらというレベルで生産されるべきだなあ」と思ったのだが、突然こんなことを言い出しても狂ったかのように思われるのは癪なので、ブログの記事がてら思想を書いていくことにする。
状況の整理
まず、現在の人口生産に関する日本の状況を整理したい。
一人で生きていくのがやっとか、もしくは誰かを養う余裕がなく、
子どもを産むことに憧れながら諦めるか、共働き前提で産んで保育園ガチャに挑む。
情報の流通によって子育てがまるで地獄であるかのような様相を見せつけられ、
かつ、自分たちの人生すらあまりよくないので、将来的にこの世界に産み落とされる子どもの未来も明るくは見えない。
そうなると、もはやエゴでも子どもを産み育てるというのはコストに見合わない行為になってくる。
コストを見つめて合理的に考えれば、一個体がこの国で得られる最大限の利益を享受する方法は一つに絞られる。
それは、自らは子どもを産まず、他人が産み育てた労力にフリーライドする形だ。
世代比較で言えば、ベビーブームで生まれた人間たち、そして今の若者とされる人間も同じく、人としてまっとうな他人の払った労力に規制して生きている。
ただし、一昔前の豊かだった時代の人間が行うフリーライドに比べ、若い世代の行うフリーライドは、火を点す爪を得るかのような、さもしく、惨めな、だがしないよりはマシというものになるだろう。
世界はいつだって、他人の上前をピンハネする個体が栄えるように出来ている。
そして、全ての個体が賢しく生きる世界は、それゆえに滅ぶのである。
フリーライドの限界、人口の崩壊
ただ、フリーライドするにも限度がある。
他者のカンパを頼りにして公共投資をサボってみれば、出来上がるのは何に使うかも分からないみすぼらしい施設になることもあるし、
二人の囚人は自分が有利になろうとするあまり、二人そろって最大級の刑期を食らう羽目になる。
さらに、自分だけ少しだけでもマシに生きていこうと思っても、寄生するための他人が滅んでしまっては元も子もない。
我々日本人が親の世代から言われ慣れている、日本人という人種の絶滅や、それより前の社会制度の完全な崩壊はとても現実味のある未来像だ。
そして、その未来には、わざわざ子どもを産み育てようなどと思う人間は殆どいない。
人口を生産し、教育し、社会に還元するのが政府の役割になればいい
もはや子どもを積極的に産み育てようとする個体がいない中、仮に日本人を残そうと思うならどうするべきか。
結論から言えば、政府が技術とコストをもって人間を工業的に生産し、教育を施し、社会に送り出し、その恩恵を政府と社会に還元させることだ。
全ての個体が子供を育てるか否かという観点で合理的に、賢しく生きるとしたとき、社会の富のバランスは産まない方に比重が傾き、産む方が割を食うことになる。
この時、政府に求められるのは、割を食う側への補填、つまり福祉である。社会全体で見れば富める者を富ませ、貧しきをさらに叩くことが最大効率への道なのだが、そうすると治安が悪くなるので、政府は余分なコストを支払って貧しきを救わなければならない。
こうした例で最も上がりやすいのは生活保護だとか、健康保険といったものになる。
子どもを産み育てるという観点で言えば、子育てに関する援助金がそれに該当する。
だが、今は援助金がコストを埋め合わせるには足りていないのが現状だ。
それでは、金銭的な問題が解決されれば子どもを産む個体が増えるか?
おそらく、増えはするだろう。私個人の感慨としては、子どもなどは幸せな家庭という親のエゴとこらえ性のなさで産み落とされるものだし、一人程度であれば産める者は産む、程度のものだ。その人数制限のタガが金で外されるなら、望む者は更に増えるだろう。
だが、全体はどうだろうか。どうせ人間のことだから最悪のことを考えよう。
殖えることを望む者がいる一方で、人と結びつくことを好まない人間もいるのである。
配偶者や恋人の有無、恋愛感情に関する統計データでもその傾向は顕著だ。
その勢いは更に加速していくことは想像に難くない。いずれ、個人と個人の間ではどうしようもない断絶が生じた時代が来ることと思う。
こういう話題になると、若者が虚構にかまけるからだ、とか、積極性に欠ける、といった話が出てくることが多いと思われるが、そんなことは虚構に魅力で負け、積極的に動く気も起こさせない現実の人間の価値のなさが諸悪の根源だ。
我々は情報技術によって多くの価値観、つまり価値あるべき虚構を知り、他者の得た苦痛をいつか降りかかるコストとして、それを避けるための知識を知った。
さらに現実の頼りなさ、価値のなさを知ったから、いつか降りかかるコストを避けるには防御するでもなく、ただ無自覚に見切りをつけただけに過ぎない。
いかに多様性の時代といっても、それは技術の発達によって個体が多くの物事を知られるチャンスが増えたというだけで、知ったことを理解できるか、受け入れられるか、は全く保証しない。人間一人に受け入れられる個性の数など、たかが知れている。
例えば、世界の人間を二種類に分けて、受け入れられる人間の境界を決めてみよう。
若者か、老人か? 特定の思想を持つか否か? 男か、女か?
様々な観点があるだろうが、究極的に収束するところは、「自分か、それ以外か」の程度でしかない。自分すら受け入れられないものは産まれ落ちた世界を呪うか、命を絶つかのどちらかだろう。
このようにして、個人の断絶が進めば、好き好んで他人と繋がって子どもを産みたがるような個体は存在しなくなるのは当然のことで、その結果、民族が滅びるのは全く不思議ではない。
滅ぶなら滅んでしまえばいいと思うが、もし、政府が国としての姿とその実体を望むのなら、これはもはや政府自らが公共の福祉として「人口を生産」するしかない。
何らかの技術をもって、単価いくらで人間を生産し、育て、教育し、労働させ、政府に還元させる。
これこそが究極の社会福祉ではなかろうか。
それに、人間の生殖は個体ではなく政府が司るのだから、もはや人間に生殖のための性別も必要なくなり、ジェンダーの役割からも解放される。いっそ性別など失くしてしまえば、くだらない男の性欲も、女が抱えていると主張されるハンデもなくなる。
これは多少、現在の人間が望む姿と比べれば歪んでいるかもしれないが、それでも今よりはマシではなかろうか?
むしろ、無性もしくは中世の人間という像は、天使のような宗教的シンボルのようで、天界のイメージが近しいように私には見える。
倫理の壁
人間とはかくあるべし、といった話をすると、倫理という観点が必ず前に立ちふさがる。それは、倫理というものがまさしく、人よかく在れ、と時代に応じて定められる概念だからだ。
だから例えば、今の私のように、人間は単価いくらで生産されるべきだ、などと言うと、それは命の価値をあまりにも軽んじすぎでは……という答えが返ってくる。
命の価値を大事に考えるのは、今ならではの考え方だと私は思う。
(私は今の時代の人間なので、どうせ生きるからには何か価値があるべきだと思うし、どうせなら楽しい方がいいとも思うのだが、一方でどうしようもなく辛かったり世界が呪わしいのなら、それをすっぱり切り捨てるぐらいの価値の軽さでもいいと思う)
なぜなら、断絶が進めば皆大事なのは自分の命だけであって、究極的な話をすれば他者の命などは知ったことではなくなるからだ。その状態で、単価いくらで生産されるような無性人間の価値など、かかったコストと将来見込まれる利益の差し引き額以外に何を見出すのか?
当然ながら、すぐに変化は起きない。
人が他人に対して冷酷さを増し、興味が薄れ、いつかそれが致命的なものになったその時までに、人間の胎を借りずに人間を生み出す手段・技術が生まれればいいと思うが、どちらが間に合うのが先だろうか。
「そもそも人間をコストと期待をかけてまで、生産する意味ある?」と考える人間が多数を占めればそれだけで私の思い描くユートピアは壊れるのだが、どうもその方が可能性があるような気がしてならない。
2018年8月31日
9月2日だというのになぜ私は8月31日の日記をつけているのか?
その答えは、その日が飲みの帰りであったことと、昨日の私がゲームにかまけていたことが原因である。
しかしながら、あの日は普段通りではないことがあったので、その備忘録としてこの記事を書く。
大学時代の友人と飲みをやった。
彼(Aとしよう)は2年の時のゼミ仲間で、柄にもなく教授をリスペクトし(本当に尊敬していたのだ)思い出せる限りの中で大学生活が一番楽しかった頃の友人だ。
その彼と2年ぶりに飲み、いくつか、「これは覚えておこう」という言葉をかけられたので、振り返りと共に記しておく。
A曰く、私のことはAの別な共通の友人(Bとする。これも2年の時のゼミの仲間だ)とAが飲んでいるときに話に上がってくるそうだ。
その話に上ってくる私の評価は「見た目がいいのになんか残念な奴」だそうである。
正直なところ、私はよくこういうことを言われる。そして次のようにも言われる。
黙っていればそれなり(Aは女形の役者のようだと言っていた)なのだが、なんだか残念な感じがある、と。
結構色々な人に言われ、「覇気がない」とか「髪型もうちょっとがんばったら」などと言われるのだが、覇気などどう出せというのかという話だし、髪型に関しては美容院に行ってみたことがあるのだが、1000円カットと同じくらいの感慨しかないのでとても馬鹿々々しかった。
Aによれば、私の面白さは対面か、私の外見とセットになってこそのものらしく、このブログも面白いことには面白いが、それはリアルの私を知っているからなのだという。
そう来ると、セルフプロデュースする方法は一つしかない。
Youtuberだ。
好きなことで生きていく。確かに素晴らしい言葉だと思う。
だが、Aはこうも言っていた。
「お前が自分で面白いと思って書くところに、お前の面白さは宿らない」
「お前は変人になりたい常識人、凡人だから、変人の土俵で戦おうとすると上位互換に勝てないんだ」
Aによれば、私が普通に、面白くも思わず当たり前のように行う行動に他人から見たクレイジーさが宿るらしい。確かに、我々が狂人を見てどこか滑稽さを覚えることがあるのは、本人はその行為を大真面目にやっているからで、本人がそれを面白いと思ってやっていたら興ざめもいいところだろう。
だから、Aの結論としては、私が面白くも思わないことを嫌々ながら書くのが、他人にとって面白いポイントになる、とのことらしい。自衛隊のイラク駐屯地レポートのようなものか、と私が言うと、彼は、いい喩えじゃないか、と満足気だった。
また、文体についても上の性質から口語体の文章より、文語体に近い形で書いたらどうか、とのことでもあった。
そのため、この記事はそういう方向性で書いている。
さて、Youtuberの話に戻るが、自分で面白いと思わないところを動画にして編集するのはかなり苦痛を伴うのではなかろうか。自分でそれをやっているところがどうにも想像がつかない。
誰か自分の他に一人でもついてくれたらと思わなくもないのだが、Aは「お前をプロデュース出来る自信があるけど、お前といると情報量が過多で怠いからやらない」とのことだった。人のことだと思ってずいぶん気軽に言うものだな、と思ったが、他人の人生など仕事でもない限り知ったことではないので、もっともである。
最低限のコストでホ別2万の人を見抜く方法
待ち人来たらずなんてことはよくあるが……
今日、とあるサイトで女性と待ち合わせの約束をしたのですが、普通にすっぽかされました。
こんなことは初めてではないのでショックとかは全然ないんですが、
時間と金を無駄に使わされたという点において、ホ別2万の人よりよっぽど悪質だなぁ、と思いました。
FGOのガチャに例えるなら、
金色になる演出が出たのに星3のサーバントが出てきたくらいの渋さです。
想像しただけでスマホ投げつけたくなるでしょう?
これがリアルの人間が起こしたものだと考えてください。
キレたくなるでしょう?
しかし、私《わたくし》、大人なのでそんなはしたなくはキレませんし、
ガチャなら引くまで引きますし、
会うためなら会えるまでメールしますわ、オホホホ(ヤケッパチ)。
実際何人かには会ってますし(震え声)。
おっと、ホ別2万って何でしょうか、ですか?
ホ別2万。
この言葉は出会い系サイトを始めると必ずぶち当たる、
相手にするだけ金と時間が無駄な概念でございます。
せっかくなので今回は、以下のテーマでお送りします。
・ホ別2万とは?
・ホ別2万に時間と金を無駄にしないために
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