徒然すぎて草。

ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん

サピエンス全史第2部(上)

さあ、またサピエンス全史だ。

余談なのだが、会社の昼休みにメモを取りながら読んでいたらかなり注目された。

私のメモの字の汚さにさらに驚かれたが、自分で読み返してみるとところどころ判読不明な個所があって笑ってしまった。

 

サピエンス全史の第2部は大まかに、農業が人類にもたらした影響と、農業で増えた人類が何を生み出したかについて語っている。

今回は、前者についてまとめる。

 

農業が人類にもたらしたもの

実のところ、個体のレベルで見ると、農業を始めた当初の人類にもたらされたメリットはほぼ無かった。

  • 栄養状態は量・質ともに狩猟採集民の頃より悪化
  • 運良く豊作でも、周囲からの略奪リスクが高まる
  • 過酷な重労働でヘルニアなどの疾患が現れる
  • 定住するようになったことで伝染病リスクが増大

 

ではなぜ、これだけのデメリットを負いながら人類が農業を選んだのか?

その理由は以下のようなものだと書かれている。

  • 努力すれば報われる(食料が安定して得られる)という未来への期待
  • 農業を数十年続けていく内に狩猟採集民としての暮らしを忘れた

 

しかし、農業が何のメリットももたらさなかったかというとそうではない。

先程、農業は個体のレベルではメリットをもたらさなかったと書いた。

個体の逆、つまり種のレベルであれば確かにメリットのある出来事だったのだ。

 狩猟採集民であった頃は、食料を得るために能力がなければ生き残ることが出来ず、個体数が少なかった。

しかし、農業に従事してからは、確かに個々人の栄養バランスや暮らし向きは悪化したが、最低限食いつなぐことのできる人口は増大した。

人口が増大するということは、それだけ種としての遺伝子の多様性が増えることになる。つまり、種として成功を収める、ということだ。

この多様性の創出こそが農業革命の肝であったとハラリは語る。

そして、増えた人類が何を生み出したのかについては、第2部の後半で語られることになる。

 

思ったこと:

経済学を勉強すると必ず、集団の最大幸福と個々の幸福のジレンマにぶち当たる。

各々が自分の幸福を最大化しようとすると、総量で見た時の幸福が減少してしまうというものだ。

こうした関係性は、農業革命が個々にとっては殆どメリットを与えず、しかし種としての成功をアシストしたという言説に色濃く表れているように見える。

それにしても、出来るだけ多くの人間を生かそうとすると、大半の人間は死人のようになる、とはなんと皮肉な話だろうか。

こんなことを考えるとふと、昔読んだ↓の記事を思い出す。

gigazine.net

興味のある人は読んでみてほしい。

ディストピアに惹かれる人であれば、きっと気に入るはずだ。

それでは、また。

サピエンス全史第1部(2)

前回、サピエンス全史という本の解説記事を書いたのだが、ちょっと反省しなければならないことがあった。

 

persona-kaza310.hatenablog.com

 この記事、実に3000文字近くあり、非常に長いのだ。やっている本人としては大学のレポートをまとめているみたいで楽しかったのだが、今の私にはもはや尊敬できる大学の教授はいない。

いるのはこのブログを見てくださる読者の方々のみなのだという事実を、もう少し直視しなければならないらしい。

と、いうわけで、今回は短めに行こうと思う。

 

狩猟採集民族としての人類

第1部後半の趣旨はこうだ。

農業を始める前、狩猟採集によって生きていた人類は果たして、どのように暮らし、文化を持ち、地上にどのような影響をもたらしたのか。

 

文化、とりわけ精神文化の面で言うと、分かっていることは殆どない。

というのも、この頃は文字はおろか、後のために何かを記録する技術すら発明されていなかったからだ。

 

だから、狩猟採集民だった頃の人類について知るには必然的に、物質的な側面に依ることになる。

現代人からすると考えにくいことだが、彼ら狩猟採集民の生活は次のような負の側面はあったものの、ざっくり言うと豊かであったらしい。

負の側面:

  • 暴力による横死
  • 自然の厳しさ故の欠乏
  • 生活に協力が求められるが故の、役に立たない・協力できない人間への排斥

正の側面:

  • 豊富な種類の食物由来の、豊富な栄養素(栄養の質で言えば農業時代とは比べ物にならないほど高い)
  • どれか一つの食べ物がダメになっても他のもので補うことが可能
  • 食物を探すために発達した肉体と知識(狩猟採集民だった頃の脳は現代人よりも大きいとすら言われている)

 

人類がこの地上で何をしたか

知恵やコミュニケーション、火で力をつけた人類はこの地上で何をしたか。その答えは次の通りだ。

通りがかる地域の大型動物を狩りつくした。

食料や毛皮を求めて人類が目ぼしい動物を狩り始めると、大型動物は繁殖のスピードが非常に緩やかなので、やがて狩りのスピードが繁殖を追い越してしまう。

こうしたサイクルを続けていくことで、体長が50センチメートルを超える大型の動物は、認知革命の頃には200属いたにもかかわらず、現代では100属まで落ち込んでしまったのだ。

 

まとめ・思ったこと

リョコウバトの逸話なんかを見る限り、人類って残虐で頭が足りないのだなァ、と思ったりしたものだが、祖先もあまりやっていることが変わらなかった。

また、狩猟採集民の豊かな暮らし、という記述を見ると、じゃあなんで農業なんて始めたんだ? なんで戻らなかったんだ? という疑問がわいてくるが、それは第2部で語られるらしい。このブログ記事を読んで、こんな内容なのね、と思って興味を持ってもらえたなら幸いだ。

それではまた、次の記事で。

 

サピエンス全史 第1部(1)

ブログをやり始めた当初は「書評でもやろうかな~!」と思ったのに全然やっていないのはどうしたことだろう。

理由は単純、面倒だからなのだが、そうはいっても他人が代わりにやってくれるわけでもないので、やはり自分で書くしかない。

というわけで、今回は最近読み始めた「サピエンス全史」の上巻、第1部の前半に関して、どういったことを言っているかとどう思ったかを綴っていく。

なぜこの本を選んだかと言うと、「今を生きる全ビジネスマン必読の新しい教養書」なる”強い”ワードが書かれていたからである。

 

人類史における「三大革命」

 ハラリはまず、人類文化の発展が紡いできた歴史の中で、3つの大きな革命があったと主張する。人類が他の動物と一線を画し、文化の発展、すなわち歴史が始まるきっかけとなった「認知革命」、その歴史を加速させた「農業革命」、そして「科学革命」である。本著はこれら3つの革命が人類に、そして地上の生き物たちにどのような影響を与えたかについて記述している。
 第1部では全4章構成で認知革命について扱っており、この記事では前半の第1章・第2章が何を論じているか、そして私がどう思ったかについて記述する。

 

人類はどこから来た何者か

 学者の説では、人類は250万年前の東アフリカでアウストラロピテクスから進化して生まれた。その後、今から200万年前にアジア・ヨーロッパ・北アフリカへ版図を広げ、それぞれの環境に合わせて進化していった。そして、今から1万年前になるまでは、この地球上にホモ・サピエンスの他に、ホモ・ルドルフェンシス、ホモ・エレクトスネアンデルタール人などのいくつかの人類種が暮らしており、1万年前より後ろの時点では何らかの理由により、サピエンスが現代のようにこの地球に生きる唯一の人類種となった。

 

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 それぞれの人類種には体格などの特徴が見受けられるものの、大きな特徴点がある。それは、巨大な脳を持ち、直立二足歩行をするということだ。この二つの特徴によって、人類は高度な思考力を獲得し、自由になった手で精巧な作業をすることが出来るようになった。その反面、脳はその燃費の悪さから、エネルギーのリソースを体の他部位から奪い取り、結果として筋力が弱くなった。また、巨大な脳を支えながらの二足歩行は肩こり・腰痛という、四つ足の動物では経験することのない苦痛を人類に課した。

この2つの特徴が出産に関して与えた影響はとりわけ大きい。というのも、直立二足歩行によって女性の骨格は以前よりも狭くならざるをえなくなり、同時に発達した巨大な脳が出産の際に大きな障害になる。そこで、人間は子供を成長する前の早期の姿で出産することにより、このジレンマを乗り越えた。しかし、生後すぐに動けるようになる他の哺乳類の動物とは違い、人間は自分で生きて行けるようになるまでに、長い時間をかけて年長者の世話になる必要がある。しかし、この手間のかかる出産と子育てこそが、人間が社会性を育むきっかけとなった。

 

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 人類は巨大な脳と精巧な動きが出来る手を持ったことで、道具の作成、高い学習能力、社会構造を手に入れ、40万年前には火をコントロールできるようになったことで更なる飛躍を遂げた。火は光と熱の源となり、武器となる。また、火を使って調理をして食物を消化しやすくなったことで、食事に要する時間を削減すると共に、脳と同じくエネルギーのリソースを食う腸を短くした。腸が短くなり、エネルギーが他のところに回せるようになったことで、人類の脳は更に進化したのではないか、という言説もある。

 

 15万年前の人類は、火の恩恵に浴していながらその勢力は未だ大きくはなかった。これは現生人類に連なるホモ・サピエンスも例外ではなく、この時点ではアフリカ大陸の片隅に細々と暮らす存在に過ぎなかった。学者によれば、およそ7万年前にアラビア半島に広がり、そこから短期間でユーラシア大陸全土を席巻したという。

 

この時、ホモ・サピエンスが移住する前に定住した他の人類がどうなったかについては、2つの学説が存在する。1つは「交雑説」というもので、ホモ・サピエンスが他の人類種と交配し、現生人類はその結果生まれたものだとする説である。確かに、現生人類の一部には、過去に生きていた他の人類種のDNAを持っている人種が存在するが、その交雑の割合は数パーセントにすぎず、部分的に正しいという程度にとどまる。

 

それでは、いかにして他の人類種が消えてしまったのかについては、「交代説」が答えを提示する。これは、他の種が何らかの理由でゆっくりと死に絶えてしまった結果か、もしくはホモ・サピエンスが他の人類種を大量に虐殺するなどして、地上に君臨するようになったという。

 

いかにしてサピエンスは栄えたか――認知革命

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 なぜ、ホモ・サピエンスだけが地上に生き残ることが出来たのか。その答えは言語・認知的能力に起こった革命的現象にある、とハラリは論じる。言語自体は人類に限らず、単純なパターンではあるが動物も持っている。それでもなおサピエンスの言語が特別な理由について、ハラリは2つの学説を提示している。まず、膨大な表現パターンを持っている点。もう一つが、噂話をすることによって、より強固な協力体制を敷くことが出来る点だ。

 

しかしながら、ハラリは自説として、ホモ・サピエンスの言語が持つ真の特徴は、「まったく存在しないもの、見たことも触れたこともないものについての情報を伝達する能力」にあると語る。研究によれば、噂話によるコミュニケーションで統制の取れる集団の上限人数は150人と言われている。

しかし歴史は、人類が150人の上限を超えて協力体制を敷けることを示している。太古の都市国家しかり、中世のカトリック修道会しかり、近代の国民国家しかり、現代の企業しかり、人類はその成員がおそらく、「共通の神話・ストーリーという虚構」を伝達し、それを信じることによって、互いの顔も知らない人間同士がこれらの組織を運営したり、取引をしたりすることが出来た。

 

 また、人類が生み出す虚構は柔軟性を持つ。チンパンジーは生物学的に父権主義的な社会を構築し、それが変わることはない。しかし、人間は保守的な家庭で育てられながら、大人になってリベラルになることも出来るし、資本主義社会で育った人間が社会主義イデオロギーに染まることも出来る。

 

思うこと

 ハラリ氏はどうやら、人類の発展は虚構を生み出し、それが信じられるよう意味付けすることに裏付けされてきた、というのが説の根幹にあるらしい。読む限り、本の中では150人を超えた協力関係の構築をするにあたり、共通の神話を信じることが役に立ったというのは「おそらく」というレベルで留められている。こうした面から、神話が実際に役に立ったかどうかの因果関係は一概には言い切れないものを感じる。

 

とはいえ、現に我々は巨大な組織が運営されている様を目の当たりにしているので、そこに何らかの引力が働いていると見るのは自然な気がするし、行動の種火となる思想の部分に、修道会で言うところの神、国民国家で言うところの国民主権や人権といった概念が鎮座し、それが人々に影響を与えていると見るのは自然なことかもしれない。

 

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 また、今日の我々は、多くの人がそれぞれの主張を振りかざして対立しあう分断の構造を目の当たりにしている(ような気がする)。老人と若者、企業と労働者はハラリ風の言い方をするなら共通の神話を持っていないので到底折り合わない。ツイッター上で社会学者や女性の味方を名乗る人たちは、自分たちの考える正義という虚構をあちこちに押し付けようとして、見当違いな方向に多大なコストを払わせようとしながら叩かれている。

 

 こうした争いは今後も増えるばかりだろうし、今は少し変わった人たち程度で認識されているであろう男女間の社会的再生産に関わるいさかいも、時を経て一般化される可能性だってある。こうなれば人間がその数を勝手に減らし、取り返しのつかないことになるかもしれない。

 

 この虚構同士の小競り合いが数十年前と比べ、随分と多くの派閥がやり合うようになったように見えるのは私だけだろうか。また、小競り合いの頻度が増えているのはどうにも、通信技術の発達によって、人々が触れられ、発信することのできる情報が量・質ともに爆発的に向上したことと無関係とは思えない。

 

もしそうだとしたら、多彩なイメージの伝達と噂話、虚構の伝達能力によって栄えたという我々ホモ・サピエンスが、それによって滅びることになるとは実に皮肉な話ではないだろうか。

 

耳鳴りで耳鼻科に行ってきた話

今週の月曜から、耳鳴りがするようになった。

あくびをすると出る様な、「ゴーッ」という音が、晩と朝にずっとする。

幸い、仕事に出かけた時なんかには気にならなくなっているのだが、寝るときがどうやってもうるさい。

耳抜きをしても少し軽くなったかな、程度には感じるがそれだけで、まともな対処法が見当たらないのがなんとももどかしい。

突発性難聴は2週間以上経つと治らなくなるというから、私は焦って耳鼻科に行くことにした。

聴力検査などなどを行い、先生からは「そのうち治るタイプだと思います」というありがたい言葉だけいただいた。

曰く、私くらいの歳の若い人間が耳鳴りに悩むというのは珍しいケースなのだそうだが、聴力検査や中を見る限りでは器質的な異常は見受けられないとのことで、「星の数ほどある」と医者の間で言われる耳鳴りの原因の中でも、せいぜい思いつくとしたら環境の変化やストレスくらいなのだという。

ストレスならば職場で思いつかないでもないが、なんでよりによって一番リラックスできるはずの自宅の部屋でばかり耳鳴りが起こるのだろうか、全くの謎である。

 

「漢方のお薬出しときますね」と早々に診察を打ち切ろうとする先生に、私は少し食い下がってみた。

風見「先生、実は、毎晩筋トレした後に耳鳴りするような気がするんですけど……

怪訝な顔をしだす先生。

風見「あっ、あの、プランク的なやつです。それってなんか関係ありますかね?」

先生「(プランクのポーズの真似をしながら)……こういうやつですよね? いやぁ、筋トレで耳鳴りは聞いたことがないですね……(苦笑)。でも、筋トレはいいことなんでそのまま続けてください」

風見「あっ、ハイ。ありがとうございます……」

 

かくして診察が長丁場になることも覚悟しての私の午前半休は、医者にかかってもなお3時間残ったのであった。

話は変わるのだが、最近、ジオウが面白い気がする。

当初はビジュアルがアレだったのだが(特にゲイツの武器のひらがなのクソだささが耐えられなかった)、最近はなんだか慣れてきた気がする。

気のせいだろうか。たぶん気のせいだ。

歓迎会と福利厚生のブルース

早速歓迎会の幹事をやらされたマン

ついこの間、大学の同窓会に行って、「同じ大学出身者の多い大企業に行った奴は飲み会の幹事とかやらされて大変だなぁ~!」とか思っていたら、職場に新しく来た人の歓迎会の幹事を任された

↓問題の記事

 

persona-kaza310.hatenablog.com

 

即堕ち2コマもいいところであるが、いくら面倒だと言っても歓迎をしないわけにはいかない。忌み子のような扱いをするのは簡単だが、そうして捨てられた誰も彼もが飛影のように村を焼き払わない選択をしてくれるとは限らないからだ。

そうなると、問題は店選びになる。

人間というものはとかく面倒で、やれ酒は多いのか、やれおいしいところがいい、落ち着いたところがいい、駅から近いところがいい、と、婚期を逃した人間と同じくらい面倒なことを言う。

どうせ酒に酔えば味の違いなんて分からないし、勝手に動物園になるし、駅から近かろうが終電を逃せば同じことになるのにだ。

そして、何よりも金にうるさい。

どうやらこうした会社での会の相場で言うと、適正価格は3000円台といったところだろうか。もっと安いところもあるかもしれない。

しかし、私が今回任された会は一味違う。

なんと社長を含め取締役クラスが3人も来るのだ。

これは今吹っ掛けないでいつ吹っ掛けるというのだろう。

とはいえ、個人的に恨みを買う形で吹っ掛ければ私の首が飛ぶことは必定である。いくら今の仕事に金払いが見合っていないと多少感じていても、明日から無職になることはさすがに望んでいない。

となれば、何か裏をかいてミッションを遂行するしかない。

 

汚いことをやるには制度を利用する

会社員は多くの場合、クソに額を擦り付け、クソを噛み締める様な生活を送っているわけだが、そんな人種にも仏が垂らした蜘蛛の糸がごとき一筋の光明がある。

経費だ。

この言葉があれば、印籠をかざした水戸黄門のように大手を振って、会社に向けて吹っ掛けることが出来る。会社と言えど制度上は仮の人格を持った法人であるので、これはもう実質、他人に対して吹っ掛けたのと同じような効果を得られることは間違いない(お前もその一部だろうが! という意見はあるがそれはそれ)。

とはいえ、経費申請という言葉が全ての扉を開く魔法の言葉だったのは四半世紀も前の話だ。その頃は「象1頭、1000万円也」と書いても通ると言われた程だというが、今を生きる我々には想像もつかない世界である。

今、現在を生きる我々は、バブリーな頃の人間とは違うので、ことを慎重に進める必要がある。そこで、私は情報収集をすることにした。

 

風見「今度、Dさん(歓迎される人)の会で取締役勢に吹っ掛けようと思うんすよ(笑)キャッキャッ」

Dさん「えっ、この会社ってこういうことに経費とか出ないの?」

風見「むしろ出てたんですか?」

Dさん「一人頭5000円くらい出してた気がするよ」

 

これはいいことを聞いた気がする(サンプル数1人)。

 

そうと決まれば話は早い。早速、経理の人間にウチはどうなっているか聞いてみるのだ。

 

~数分後~

Dさん「どうだった?」

風見「ノーマネーで、フィニッシュです……」

 

 

福利厚生と個人のあいだ

私の何がいけなかったのだろうか。そもそもスタート地点から間違っている気がするが。

調べてみると、歓迎会を経費で落としている会社とそうでない会社の違いはやはりあるらしい。

では、どのような基準で決めているかというと、「その歓迎会が会社の福利厚生として成り立つか否か」なのだという。

福利厚生の観点で言えば、その恩恵に全員があずかる機会があるかどうかという点が重要になってくるが、そう考えると、関係のある一部の人間しか出席しない歓迎会に会社が経費として金を出してくれる道理はないことになる。

つまり、私の賭けは賭けになる要素もなく、はじめから終わっていたということだ。

 

皆さんもこうした制度について知っておくと、こうしたかなしい思いをすることが避けられるかもしれない。

この記事がその一助になれば幸いである。

それでは、また。

 

パパ活女性の節度

お父さんな、パパ活女性のプロフについて語ろうと思うんだ。

パパ活女ではなく、パパ活女性、と書き記すところに優しさを感じてほしい。

初っ端から押しつけがましいことを書いてしまったが、今回の記事はパパ活をしている女性について書こうと思う。

このブログを前々から読んでくれている諸兄はご存知の通りだが、知らない人のために言っておくと、私は出会い系サイトにいくつか登録し、会う約束をしてはすっぽかされるというカカオ90%のチョコレート並に苦い思いをしている。

100%ではなく90%としているのは、6回ほど約束したうちの2度程度は実際に会っているからで、何のことはない、ただの負け惜しみである。

ちなみに最近流行りに乗ってtinderを始め、会話をするには金を払う必要があるのだということに一日経って気が付いた。

 

面白おかしい出会い系レポはこちら↓

persona-kaza310.hatenablog.com

もし、そうしたことをやったことがない、と言うならやってみるといい。

登録はタダだし、最近はどこもかしこもヤクの売人の手口で最初の方は無料のポイントをくれる。

その門を潜り抜ける時、あなたは次のような文言を幻視することだろう。

「この門をくぐる者、相手の実在と容姿に期待することなかれ」

 

パパ活女性のプロフィール

さて、こうしたサイトで女性のプロフィールを見ていると、かなりの確率でパパ活を匂わせる文言を見ることになる(ここ2,3年でかなり増えた気がする)。

「生活が苦しいです」とか、「ご馳走してくれるpさんを募集してます」とか、「(夢を)応援してくれる人を探してます」といったものだ。

ここでいうpさん、応援してくれる人とは、間違いなくプロデューサーのことではない。確かに彼女たちは「お願い」をするし、写真加工アプリという魔法の力を得てこの舞踏会がごとき出会い系の広間に躍り出てきたわけだが、決してシンデレラではないと心得るべきだ。

また、「パパ活に関するお問い合わせは常時、メッセージにて受け付けております」というプロ意識を感じさせるものや、「犬も飼いたいので引っ越しもしたいな^^」という、どこから突っ込んでいいのか分からないものも存在する。

彼女たちはおそらく、男のつまらない話を聞いたり、ホテルに行ってやったりする見返りに、援助を要求しているのだろう。しかし、世の中にはたとえ同じことを意味していたとしても伝え方一つでだいぶ印象が変わるものだ。

援助交際という言葉も、パパ活と書けばふわっとした感じになる(暴論)。

例えば、「犬も飼いたいし引っ越しもしたい。だから援助してくれ」という言葉も、「夢を応援してくれる優しい方をお待ちしてます♪」とでも書けば、賢者タイムの男以外は騙せる。

なぜなら前者は自分の欲望を見ず知らずの人間にストレートにぶつけているのに対し、後者は夢というキラキラワードで包んでいるからだ。

こうしたプロフィールの書き方も人によってまちまちで、あー、困ってるのねぇ、と思わされるマッチ売りの少女体質の女性もいれば、図々しさすら感じさせる女もいる。

さらに言えば図々しい要求をする女であればあるほど、掲示板に同じ名前で頻繁に書き込んでいたりする。味を占めているのか客がつかないのかの真偽は分からないが、おそらくは後者だろう。そして、そうした女の大半が写真ナシかブスだ。

 

男の永遠の疑問:打率はどれくらいなのか?

10人プロフィールが並んでいれば4人はパパ活に当たるといった様子なのだが、その内の何人が目論み通りの結果を得られているのだろうか。

残念ながら、私は毎朝自分が美少女でないことに気が付いて漢泣きをしているまごうことなき男なので、検証する術はない。

前に会った、左手首に「ギロ」をモチーフにした小粋な模様(穏当な表現)をつけた、経験者の女の子に聞く手も思いつかなくはない。

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(※画像はイメージです)

だが、聞けば開けてはいけない箱に手を付けることになりそうなので、取り扱いには慎重になろうと思っている。

もし、このブログを読んでいただいた方に「私、パパ活やったことあるよ! 稼いだよ!」という方がいらっしゃいましたら、ランチくらいはおごりますので取材させてください。

ご連絡はTwitter→@Kaza3i_hiziri

までお待ちしております。

 

それでは、また。

 

大学の同窓会に行った話

友達が少ないのに大学の同窓会に行った

先日、大学公認の同窓会なるものに行ってきた。

新しい知り合いを作りがてら、名刺でも交換出来ればな、くらいの感覚でいた。

ところが、いざ行ってみると、同窓会の場に名刺を持ってきている人間の少ないこと少ないこと。

およそ3時間程度を、知らない人間やほぼ接点のなかった人間との世間話に費やし(二次会は友達の友達、くらいの関係の人と話をしていたが)、そうして得られた名刺はたったの4枚だった。

その話を職場の人にしたら、「地獄のような時間だな」と言われ、その一瞬はよく意味が分からなかった。

だが、よくよく考えたら「新しい人間に会うために同窓会に行く」という行為が全くもって謎である。

行為のちぐはぐさで言えば、「彼女を作るためにおっぱいパブに行く」くらい謎だ。

そりゃ女の子との出会いはあるだろうけども、という話になる。

おっパブの女の子を彼女に出来るかと言ったら、まぁ脈はないだろう。

実際、同窓会の収穫もそんな感じで、収穫と呼べる収穫は名刺4枚と下記の記事を読んでくださっていたフォロワーが増えたこと、そしてうっすい繋がりのFacebookの友達が増えた程度である。

↓問題の記事

persona-kaza310.hatenablog.com

 

大学時代の人間関係→社会人生活へのインポート

さて、同窓会の結果はさておき、同窓会の間に感じたことでも書き綴っておこうと思う。

今回、あの場に居て一番強く感じたのは、

同じ大学の出身者が多くいる企業に就職すると、それまでの人間関係が多少なりとも持ち越される

というものだった。

私の行っていた大学を卒業した人間が行く企業は大抵、以下のパターンに分けられる。

・商社

・銀行・証券の営業

・銀行・証券系のシンクタンク

・マスコミ系

・(少数だが)SE

この中の赤字で書いた商社と銀行というのが特に、採用人数が多いこともあっていわゆる学閥なるものを形成するようで、同じ大学出身者同士の結びつきが強く、同期はもちろんのこと、先輩後輩の関係まで持ち越されて、下の立場の者はさらに下の立場の人間が出来るまで、飲み会の幹事をやらされるのだという。

(サンプル数が数人なので、どこもかしこもこうした文化を持っているわけではないのかもしれない)

私はというと、就活で銀行などは受けたもののことごとく落ちて、今はITの方で働いている。上下の立場で飲み会の幹事をやらされることもそうないので、上記の文化とは完全に外側のポジションにいる(と思う)。

そうなってくると、私が経験する社会人のはじめの数年と、彼らの経験する数年は異質なものになると言えはしないだろうか。

これはどちらがより優れているということでもなくて、単純にそれぞれの環境で育った人間がその後どういう生き方をするか、という問題に過ぎない。

彼らは上司部下・先輩後輩という人間関係の中で、より強かに生きる術を学び、時に明文化されない組織の論理に身をやつすことがあるかもしれない。

私はといえば、それなりにフワフワとモノをやらせてもらいながら、ふと大事な時に「君、幹事くらいはちゃんとやろうよ」などと言われることになるかもしれない。

人間は共通の幻想を抱いている者をより仲間だと認識しやすく、共通の幻想を抱いていると見せるためには、その幻想に身を捧げていることを態度で示すことが手っ取り早い。

たまに身を捧げているのと、せっせと事あるごとに身を捧げているのとではどちらが仲間だと認めてもらいやすいかと言えばそれは間違いなく後者である。

さらに言えば、会社に所属する人間というのは根本的に、組織の力を借りなければ自立が出来ない弱い存在であり、その弱い存在がどうやって組織に生かしてもらうのかと言えば、それはコミュニケーション力がモノを言う。

コミュニケーション力とは、単に口で上手いことを言うだけでなく、表現方法に関わらず相手に伝えるべきことを伝える能力である。だから態度で示せるものがあるなら、常日頃そうしたことに慣らしておくのも決して悪いことではないだろう。

ただし、それは心身が壊れない範囲で、という注釈がつく。

 

二次会でしこたま飲まされていた商社の女の子

二次会で友人とさらにその友人と話していて、ふと、周りが気になった。

というか、気にせざるを得なかった。

というのも、おそらくは運動部の部員であったろう一団が、童謡「さんぽ」のフレーズで飲みのコールをしていたのだ。

かなり謎な文化だと思ったがそれはそれ。靴下が文化なら足袋も文化である。でも元気なのは分かったから少し静かにしてほしい。

気になったのは男女問わずめちゃくちゃ飲まされていたことだ。

特に同窓会の幹事をやっていた女の子は元々ノリがいいと知られていたのだろうが、飲まされ方が尋常じゃなく、最後の方は階段に座り込んでいた。

遂には部員が止めたタクシーに乗って夜の街に消えて行ったのでその後は知らないが、あの大学のメンバーなのでどうせ大したことは出来ないだろう。というかそうであることを願う。

これを見て思ったのは、明文化されていないルール(その場のノリとかそういうの)が強い力を持つ組織に居ると、時に自分のキャパシティを超えて、組織に身を捧げるような行為を強要されるリスクがあるということだ。

そうした組織が、私のいる会社と彼らの行った会社のどちらに多く見られるかなどは一目瞭然で、出世競争もそうしたリスクやストレスにどれだけ耐えられるかの勝負になることは明白である。

リスク・ストレスへの耐性を持つこと自体は全く悪いことじゃないし、それで出世をして判断を下す立場に上るなら、それは価値のある能力の一つだ。だが、それに耐えられず脱落した者は悲惨である。なぜなら、脱落者はそうした外的な刺激に再起不能かあるいはそれに近いレベルで曝され、耐えきれなくなった段階で日陰に打ち捨てられるのだから。

勝つ自信があって覚悟を持ってその道を進むのなら止めはしないが、そんな覚悟を持って生きている人間など、彼らのうちどれほどいるのだろう、などとふと思ってしまう。

私は常々、この世で成功する秘訣は、「他人から不平を言われない程度に他人の努力の上前をピンハネすること」だと思っているが、思っていることと、それを実践できるかどうかは全く別の問題だ。(ちなみに、今、この国の若者の賃金を巡るあれやこれやは結構ギリギリなラインを攻めてきていると思う)

 

仮に二次会で潰されたとしても、知った仲の元部員がタクシーでどこかへ連れて行ってくれるかもしれない(その先がどうかは知らないが)。

だが、心身が壊れるまで何かに曝された人間を、何が救えるというのか。

 

何はどうあれ、誇れる生き方を

ここまで、たかが大学の同窓会に行った程度でつらつらとモノを語ってしまったが、ここに書いたことが真理かと言えばそうではない。

せいぜいが私のお気持ちをつづった程度のことなので、そういう考え方もあるよね、程度に受け流して、それでも何か感じるところがあってあなたの何かを変えたなら、それほど幸せなことはない。

結局のところ、私がどうしようと、彼らがどうしようと、本人がそれでいい、と思えること、大事なことはせいぜいこれくらいしかない。

今の私はと言えば、覚えること、やること、手間の割に、給料が見合っていない上に社長・経営陣からは甘く見られているようで癪に障る仕事をやっているが、

明日から私やめますと言えば、プロジェクト丸ごとが立ち行かなることが分かっているので、そうした精神状態で仕事をするのは案外バランスが取れているようで、それなりに楽しい。

後は数年後、「あんな経験して、役に立ったな」などと言えていれば最高なのだが、それはこれからの話になる。

この記事を読んでくださったあなたも、組織との関係性がどうあれ、幸せに生きられればいいと願っている。