徒然すぎて草。

ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん

『死神の浮力』などから見る、伊坂幸太郎の『悪』について。

先日、伊坂幸太郎のある作品が文庫化されて書店に並んだ。

そう、『死神の浮力』である。

f:id:persona-kaza310:20160814092158j:plainAmazonより拝借)

 当ブログ初の書評となるこの記事では、『死神の浮力』を中心にいくつかの伊坂作品についても言及しながら、伊坂幸太郎という作家の中にある『悪』について感じたことを記していく。

あらすじ・設定 

『死神』とは、各国・各地域の伝承にある死神とほぼ同じ働きをする超・人的存在だ。

人の寿命を管理し、時には死をもって人間に手を下す、そんな存在である。

 死神というモチーフはフィクションにおいてはかなりポピュラーなもので、

少年ジャンプで連載されていた『DEATH NOTE

f:id:persona-kaza310:20160814092807j:plainAmazonより拝借)

などは知っている人も多いだろう。

 死神にまつわるフィクション作品・伝承について語りだすと3つくらい記事が書けそうなので割愛するが、こと伊坂作品における死神が持つ機能は次のとおりである。

  1. 人間界に「調査員」として現れ、任意の調査対象である人間と、「1週間」の期限をもって接触する。
  2. 1週間の調査によって、その人間に死を与えられるかどうかを判断する。
  3. 「可」、つまり死ぬと判断された人間は8日目に死ぬ。

 こうした役割を持つ死神は人間界に多く存在していて、日々、誰かの生死を判断している、というのが伊坂作品における死神観だ。

 この作品では死神の一人、「千葉」の姿が描かれていく。

あらすじ

1年前、一人の少女が殺された。犯人として逮捕されたのは近所に住む27歳の男性、本城崇。彼は証拠不十分で一審で無罪判決を受けるが、被害者の両親・山野辺夫妻は本城が犯人であることを知っていた――。人生をかけて娘の仇を討つ決心をした山野辺夫妻の前に、死神の千葉が現れる。(文藝春秋『死神の浮力』特設ページより抜粋)

ひたすら狡猾で小賢しい、本城崇という男

本城崇はいわゆる、サイコパスに分類されるタイプのキャラクターといえる。

彼の行動原理は

他人の尊厳を傷つけることによって、その人の中に本城という名を刻み付ける

というものであり、山野辺夫妻は憐れにもその標的となってしまった被害者だ。

彼は他人を侮辱し、嘲笑するためには手段をいとわない。

作中で本城が仕掛けた数々の罠の詳細については言及を避けるが、

「他者への侮辱と嘲笑」という一貫した軸がこれでもかというほど提示される。

そう、彼の中には大義名分などなく、ただ自分が楽しむためだけに悪行を積み重ねていくのだ。

その悪行が、考えが、策謀が、そのいちいちが全て、全て狡猾で、小賢しい。

私自身、全てを手に入れるのは「他者を顧みない昆虫のような人間」という持論があるが、それにしたって本城というキャラクターの悪辣さは引くほどのものだった。

 

あっけない本城の最期

物語が進むにつれて悪辣さが増していく本城の所業だが、

それまでのことが嘘であるかのように、彼の最期は非常にあっけないものだった。

山野辺夫妻と舌戦を繰り広げるわけでもなく、何のカタルシスもない末路を迎える。

 

多くの物語では、巨悪を倒すところというのは一番盛り上がるはずだし、また盛り上げなければ今までの話の流れはなんだったんだ、ということになりかねない。

創作論や脚本術をかじったことのない人からしても、敵が倒れるシーンにカタルシスを感じられない作品には戸惑いを感じることだろうと思える。

つまり、何が言いたいかというと、

『死神の浮力』はそういった基礎を意図的に外している作品なのではないか、

ということだ。

 

伊坂作品の悪はいつもあっけなく死ぬ

実は、あっけなく終わる悪の姿は『浮力』だけにとどまらない。

同じ作者の『グラスホッパー』には、

《令嬢》(フロイライン)というマフィアまがいの企業が登場し、

その社長親子がまたどうしようもない悪として描かれている。

だが、息子はすぐ死ぬし、父親の方もあんまり死にざまが記憶に残っていない。

 

『マリアビートル』に出てくるサイコパス系中学生・王子慧もまた、

ひたすら狡猾で世界を舐め切り、大人や殺し屋まで手玉に取るキャラクターだが、

これもまた含みを持たせつつも、まあ地味に物語が終わる。

 

デビュー作である『オーデュボンの祈り』には、

警察権力を濫用する悪徳警官が理不尽に他者を貶め、傷つけていく姿が描かれているものの、

彼の辿る最期は「他人からすればなんでもないような理由」で撃たれて悶え死ぬというものだった。

 

いくつか挙げて来たが、伊坂作品に出てくる悪の造形は、

「自分が楽しむために狡猾な手段で他者を食い物にする」という点で一貫しており、

そこに各々が抱いてきた信条を掛け合わせて設計されている。

そして、あっけなく末期を迎えるのだ。

 

追記・死を司るキャラクター

例として並べてきた「あっけない死」であるが、

あっけないこと以上に共通する点が存在することも見逃せない。

それは、半人間・半機械のようなキャラクターによって殺されている場合が多い、という点だ。

伊坂幸太郎の作品には、実に多くの死を司るキャラクターが登場し、

  • グラスホッパー』に登場したナイフ使い・蝉、自殺をさせる能力を持つ鯨、突き飛ばして事故死をさせる槿(あさがお)、毒針を用いる雀蜂といった殺し屋の面々。
  •  『マリアビートル』に登場する二人組の殺し屋・蜜柑と檸檬、便利屋で首を折ることを特技とする七尾、殺しの業界を引退した老夫婦。
  • 『死神の精度』・『死神の浮力』に登場する、千葉をはじめとした死神たち。
  • 『魔王』・『モダンタイムス』に登場する、超能力者・緒方。
  • 『オーデュボンの祈り』に登場する、島の管理者にして処刑者、桜。

思い出せる限り列挙しただけでもこれだけの数が出るわけだが、

それにしても殺し屋の数が非常に多い。

そもそも殺し屋とは何ぞや、と考えると、殺すのが仕事のプロと単純に定義でき、

 さらに物語構造的に考えてみると、殺し屋とはキャラの生死を左右する一種の舞台装置的役割ということも出来ると思える。

つまるところ、彼らは殺人を行う機械、とも言えそうである。

 なぜ、私がこうしたキャラクターの機械性を強調するのかというと、

描写がかなり人間味に欠けている(おそらくわざとだ)ように見えるためである。

 たとえば、死神たちは人間の姿をしてはいるものの、人間の情は存在せず、ただ自らの役目である死の裁定を行うキャラクター群だ。(大半の死神はたいして調査もせずにテキトーに「逝ってよし」と判断を下しているのだが)

 また、『オーデュボンの祈り』の桜も情が感じられないキャラクターとなっており、拳銃を使う理由は「うるさいから殺す」や、「花壇の花を踏んだから殺す」といった、理由になっているような、なっていないような、ただそこに現象としてあるだけの死を体現したかのような存在であった。

グラスホッパー』の鯨も、桜と同様の設計であり、彼が人を殺すのは依頼があるからという至極明確な、情のこもらない機械のような所業を見せる。

 

こうした殺すのが役割であるキャラクターが執行する死は、

人間の殺人というよりも自然現象による死、事故とほぼ変わらず、

ともすれば死神のような超・人間的な存在の下すようなものである。

自動車事故や災害による死は確かに見た目こそ派手ではあるが、

ドラマ的に見たときに、なんらかのやり取りや戦いを見出すのは不可能であるのと同じように、

死を司るキャラクターが行う死についても同様、ドラマの挟まる余地のない、非常に淡白なもの・あっけないものと言っても差し支えないように思えるのだ。

 

数作から見る伊坂幸太郎にとっての『悪』について

これほどまでに悪役に魅力を持たせない作家はあまりいないのではないか、というのが私の持論である。

『悪役に正当性を持たせない』*1

(実はいいやつでしたとか、正義のためにやっていたというのがないということ)

という軸を持つ創作者には、

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荒木飛呂彦先生が真っ先に思い浮かぶところだが、

DIO吉良吉影ディアボロなど、

ジョジョの悪役には不思議な魅力を持つキャラクターが数多く存在する。

 

他にも羊たちの沈黙に出てくるハンニバル・レクターも、

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知性と残虐さを兼ね備えた悪の教授といえよう。

 

 確かに、今挙げたキャラクターたちに何の瑕疵もないかといえば、

それは決して違う。

DIOの本性はゲス野郎だし、吉良吉影は性癖が抑えきれないし、

ディアボロはチキンなんじゃないの? と思えるくらい慎重だ。

見る人が見れば彼らの行動は必要以上に残虐で、変態チックかもしれない。

だが、魅力とは言わないまでも面白さは伝わる部分があるかもしれない。

この辺りは感情に関わってくるため、語りえぬものについては沈黙しておく。

 

話を戻すが、伊坂作品の悪役は魅力らしい魅力が欠片も見つからない。

ただただ、悪を成し、あっけなく死ぬ。

私はこうしたキャラ設計やプロットを前にして、こう思うのだ。

伊坂幸太郎自身が悪に対して否定的なのでは?」

否定的・もしくは嫌悪感を抱いている、その感情がキャラクター設計に滲み出て……

そう考えると、ある種、愛の感じられない末路もなんとなく納得がいく気がする。

 

愛がないゆえに、悪に否定的であるがゆえに、

悪人には魅力を持つことも、ドラマのある死も許さない。

 

……そんなことを思う、『死神の浮力』でした。

 

かの作家性に関しては、本人にしか知りえないこともあるだろうから、これ以上は下手に言及することを避けるが、一読者の意見として受け取り、興味を持っていただけたら幸いである。

*1:勢い余って正当性がないと書いたものの、

プッチ神父とヴァレンタイン大統領に限ってはかなりグレーなラインだと思える。

前者は曲がりなりにも『人類のために』天国を現出させようとし、

後者は大統領の責務として『合衆国繁栄のために』聖者の遺体を集めていた。

これは大きな大義であり、見方によれば正義とも言えるだろう。