喰える飯を作るのは易し、美味い飯は作り難し
最近になって母親が別居したことによって、地味に困っていることがある。
それは、食卓のランクが落ちたという点だ。
三人家族で、今まで作っていた母親がいなくなった以上、自分が作るしかないのだが、
これがまた美味くもマズくもない。
ただ、「喰える」というただ一点でしか評価するポイントがないのである。
しかしながら、母親がいなくなってからというもの2週間、
現状の「美味くはないが喰える飯」を作っている現状は色々と事態に救いをもたらしているとも思える。
まず、自分の利益に沿って言えば、「人間として最低限の食事の質」は担保されているという点だ。
私は野菜が好きなので、積極的に野菜を刻む。焼く。時には煮る。
そうして出来たおかずは健康にもいいし、精神衛生にもいい。
しかし私には味付けであるとか、調理法のレパートリーがまるでない。
切る、焼く、煮る。あとは最近になって漬けるを覚えたばかりである。
現代文明の恩恵でガスコンロやレンジなど、上等のモノを使っているから本質はなかなか見えてこないが、
切る、焼く、煮るなどという調理法は基本的に弥生時代の日本人でも出来ていたことであり、今の我が家の食卓レベルは弥生時代ということになる。
これは非常に由々しき事態だ。
この前などは熱したフライパンに味付けのためのマヨネーズをぶち込み、
油分とそれ以外の成分が熱で分解されてエライことになった。
1つ、料理に関して賢くなりつつも、人類はこうして調理法を発展させていったのだなあ、と思いを馳せてみるのだが、
どう考えても古代の人間だってマヨネーズを鍋にぶち込みはしないだろうし、
その点で考えれば、私の調理スキルは古代人とかけっこをしているレベルといえよう。
もう一つ、「私が喰える料理しか作れない」という現状は救いをもたらしている。
それは、母親の尊厳にかかわる部分だ。
いかにメンヘラで、本来料理をするための道具である包丁で自らの胎を斬ろうとかいうトンチキな行動に出る人であろうとも、彼女の本質は真面目である。
二十何年間、私は料理が嫌い、向いていない、と言いながらも料理を作っていてくれたていた。そのことには感謝している。
母はそれなりに料理が上手く、出されたモノで喰えなかったモノはなかったと記憶しているし、なかなかの味であったとも記憶している。
そのため、たかだか2週間、料理をしているだけの私が
二十数年もの間、料理をしてきた母親に追いついてしまったという事案になれば、
そのときにはおそらく割腹案件であろう。
正直、まな板にこびりついた魚の血を洗うのすら面倒くさいのに、
風呂場で血の処理をするのは想像するだに目が回りそうな手間である。
御免被りたい。
そもそも、2週間程度で母の腕に追いついてしまったら、
それこそ彼女の存在は我が家に不要であった、という結論が導き出されてしまうので、
そんなことはなくて、まあよかったのではないかと思っている。
また、こんな記事を書いていることが彼女に知れたら全力で殴打されそうな気はしているが、
「右頬を打たれたら左脚で蹴り返す」のが私の流儀なので、
やはり我が家の争いはますます絶えない。
ところで、自分で飯を作るようになって、ある一つの癖がついたことを今日自覚した。
その癖とは、
「外食をしたときに、どんな調理が施されているかを把握しようとする」
というものだ。
基本的に、外食というものはたいてい、何となくおいしく感じられるものである。
そのため、そこから学び取ることも多かろう、ということで癖が身についた。
普段、提供されて何気なく食っている料理でも、
よく見てみると、家庭料理から一歩外れたみたいな範囲にあることは多い。
たとえば、サイゼリヤで食べられる、
「キャベツとアンチョビのソテー」などはその典型である。
これは適当に切ったキャベツと細切りの人参をオリーブオイルとアンチョビ、あと何かしらの調味料で炒めたというごくシンプルな料理である。
これを食べると、
人間というものは濃い味付けと油分さえ感じられれば、
それなりにおいしいと感じるのだな、ということに気づくことが出来る。
そのことに気づきさえすれば、感覚を思い出して自分なりのアレンジを施して、
なんとかクオリティが少々上がった料理が作れることが期待できる。
明日辺り、試してみようと思う。
これまで、技術的な部分にばかり言及してきたが、心理的な部分もバカにできないと思える。
他人の金で飲む酒が美味いのと同じように、他人の労力で作られた飯もまた美味いのだ。
どんな一流のシェフでも、世界で一番おいしいと感じる料理は何か、
という問いに対して他人が作った料理であると答えるあたりからも、
料理の美味さにおける真理が滲み出ているのは間違いない。
そうなると、私が家で美味い飯にありつける日は当分こなさそうである。
1人の人間が一流の料理人になるのに一生を捧げるのだとすれば、
私などは2回生まれ変わってもまだ足りないだろう。
かと言って、母親に戻ってもらうように言う気には全くならないし、
心のどこかでどうにかなる気がしているので、やはり気長に料理を続けていくしかなさそうである。