「歌は力」、なんだろうけど。~マクロスΔ感想~
今年の四月から放映されていたマクロスΔの最終話を見ました。
正直に言って、不完全燃焼というのが一番の感想でした。
私はマクロスシリーズを見るのはコレが初めて(あとはマクロスフロンティアのキャラ知ってるくらい)なので、
せいぜい、こんなものか、という感想を抱くのが関の山でした。
ですが、昔のシリーズから見ている人にとっては、それなりにがっくりする内容だったんじゃないかなと思います。
私の聞きかじる範囲では、シリーズの伝統として「歌」と「三角関係」がストーリーの大きな要素として扱われているという認識があったのですが、
マクロスΔという作品においては個人として、
「歌」の扱いはなんだかシュールに感じられたし、
「三角関係」についてはさほどストーリーに影響なかったような、
くらいにしか感じられませんでした。
女に興味がないなら、三角関係などやめてしまえ
基本的に、私はラブストーリーや青臭い学生の恋愛モノが好きです。
というのも、愛だの恋だのというものは、
人の所有欲や敵愾心などをむき出しにしてストーリーに映し出してくれる機構であり、
そのドロドロとした感覚がストーリーに起伏を生ませ、面白くすると信じているためです。
その信条的に、日本最高の昼ドラは「牡丹と薔薇」であると公言して憚りません。
しかしながら、マクロスΔという作品のキャラクターを見ると、
確かに相手を想うことはしているけれども、手に入れようという執念がない。
ハヤテにしろ、ミラージュにしろ、フレイアにしろ、メッサーにしろ、
誰かのことを想うばかりで、欲や嫉妬が全く伝わってこない。
三角関係を描く醍醐味は、渦中にいる人物がどちらを選ぶかで悩むか、選ばれる側も心を手に入れようと闘争を行う点にあるというのに、
物語の中盤においてフレイアの勝利が濃厚になるまではいいものの、
ミラージュもハヤテに惹かれておきながら「どうぞどうぞ」でフレイアに譲っているのは正直どうなの、と思いました。芸人じゃないんだから。
確かに、ミラージュがあきらめる理由は描写されていました。
飛ぶハヤテと歌うフレイアの間には確かで近いつながりがある。
それは分かるけども、
ミラージュ嬢、ちょっと諦めよすぎない?
そこはもうちょっと頑張ってほしかった。
最終回の終わりで空を飛ぶハヤテの機体を満足げに眺める君は一体何なんだ。
フレイアにおいても欲がなさすぎるという点で文句は同じです。
あと、個人的にフレイアにはあまり思い入れがないので語ることがありません。
しかしながら、ハヤテとそれを巡る脚本回りには少し言いたいことがあります。
ハヤテお前、朴念仁すぎるでしょ。
賢者? 仙人なの?
ハヤテが朴念仁で女に興味がない以上、三角関係を面白くするには、女性による奪い合いにシフトするしかないと思うのですが、
フレイアとミラージュがあの体たらくなので、三角関係という要素が「シリーズ伝統なので入れました」程度の取ってつけた感しか伝わらない(繰り返し言いますが、筆者はマクロスはΔが初めてです)。
それとメッサー。
彼の恋、というかカナメへの慕情の在り方は、一歩間違えば「触れ合って傷つくのが怖いから近寄らない」、童貞オタク的なフィールがして、見ていて胸が苦しくなりました。
レコーダーに『AXIA』ただ一曲を入れて繰り返し再生するって、
学園モノに例えるなら、
「憧れのあの子に拾ってもらった消しゴムを後生大事に取っておく」
くらいの感じですよ。
もちろん、「憧れのあの子」は湿った童貞の妄執など知る由もありませんし、
もし気づいたか気づいていたとしても、反応に困るかそのまま放っておくかくらいになるでしょう。
ストーリー中では、カナメは当初、アラド隊長と仲良く仕事をしていました。
当然、私も「そういう仕事仲間なのね」と思いながら見てましたし、
メッサーに関しては全くのノーマークでした。
ですが、あのメッサー回になって明らかになった、カナメへの慕情。
あれには、カナメ本人は大変困惑したと思われます。
出会ったのは何年も前のことだし、レコーダーには自分の歌った一曲のみ。
カナメ本人からは思いもよらないところで歌を聴いて、勝手に助かった一人の男。
結局、メッサーが戦死した後、カナメは昔と同じようにアラド隊長と仕事をしていたわけですが、まぁそりゃそうなるわな、といったところです。
言い方は悪くなりますが、アイドルにとっては身近なファンが一人死んだ程度です。
そのため、思いが明らかになるまではただの仕事仲間であったカナメが、メッサーの死を仕事仲間として悲しむのは当然ですが、女性としてのカナメ本人の心が動くかと言ったらそれは別問題でしょう。
ネット上ではカナメはあまり評判がよろしくないようですが、私には彼女の態度はごく普通のものに思えます。
ただ、メッサーが童貞オタクと違って救いがあるのは、
「戦い、守る力があり、死人として思い出に残る」という点でしょう。
その点でいえば、彼はことあるごとにカナメに思い出してもらえるでしょうから、報われたのではないかと思えます。
「歌の力」にちょっとついていけなかった
結局、マクロスΔという作品が表現したかった部分ってなんだろうな、と考えると、
「歌は力」
という部分じゃなかろうか、と思っています。
ワルキューレの面々はライブの直前に、
「歌は神秘、歌は元気、歌は命、歌は希望、歌は愛」
(こうして並べると、田中角栄の『政治は数、数は力、力は金』という格言に似てますね)
と言っていますが、Δのストーリー上には、ワルキューレの掲げる口上にとどまらない、歌が力そのものであることが多く表れています。
- ウィンダミアの「風の歌」によって発現するヴァール・シンドローム
- それを歌で抑え込むワルキューレ
- 歌の力による感覚の鋭敏化
- 歌をカギとして銀河に影響を与える「プロト・カルチャーの遺跡」
- 銀河すべてを繋ぎ、ネットワークを形成せんとする「星の歌」
- その「歌の力」を最大限に再現するべく作り上げられた、美雲という存在
これらに共通するのは、「歌を兵器として利用する」という点であり、作中では何かあるたびに歌で武力的な問題の解決を図っていました。
マクロスの世界観的に、歌っていたらどうにかなったという出来事が多かったので、「歌そのものに力がある」→「歌を兵器として利用しよう」という発想が出てきたのだろうなあ、
とぼんやり思うのですが、ピンチになったら歌う彼女たちが私にはなんだかシュールに映りました。
そのシュール感が極まっていたのは宇宙戦で、小惑星にワルキューレのメンツの顔が投影されたライブ映像で、「アレやられたら戦闘に集中できないっしょ」と、途端に現実に引き戻されたのを覚えています。
それでもワルキューレのメンツには罪はなく、美雲さんが大好きだったので、ライブシーンは毎回楽しみに見ていましたが、やはり歌は歌でしかなかったです。
そのあたり、古参のマクロスファンであれば何か別のものを感じるのでしょうか。
お決まりの人類補完計画、そして敗北
「皆から意識を奪って巨大なシステムの一部にして、完璧な調和を目指そう」
終盤において、ロイドは「星の歌」の力でコレをやりたかったのだと解釈しています。
『エヴァ』の人類補完計画、伊藤計劃の『ハーモニー』『屍者の帝国』、
物語のラスボスが掲げる理想としてはもはやお馴染みとなってしまったこの行動原理、
個人的には何も考えずに済むし、他人との軋轢もない、激しい喜びもなければ深い絶望もない、植物のように生きていられる世界というものは理想の世界そのものなのですが、
どういうわけか、主人公たちの手によって打ち砕かれていてばかりです(『ハーモニー』ではその限りではありませんでしたが)。
マクロスΔも例に漏れずハヤテとフレイアの愛と自我の力で理想世界は破壊され、ロイドは無念に敗れていきました。
なんで皆、そうやって自我を礼賛するんですかね……?
それに、愛情がどうというのは、マクロスΔが積み上げたものに対してはあまりにも釣り合わない。
大した執念もなく、生ぬるく手に入れられたあのハヤテとフレイアの愛で、調和が破壊されるというのはどうにも個人的に納得がいきませんでした。
「あー、ハイハイ、どうせリア充様の方々に無思考の世界は破壊されるんでしょ」
そう思ってからというもの、もう色々とどうでもよくなり、ただただ物語が終わるのを待ちました。
キャラの信念はよかった
ここまで割と叩いてしまったように思えますが、キャラの二項対立がしっかり描かれていたことについてはよかったと思っています。
自由と規律、永遠と一瞬、平和と戦い、歌は戦いの道具か、そうでないか、などなど。
ウィンダミア側での思惑が入り混じっている様子、
特にロイドとキースのすれ違いなどは個人的に見ごたえがあり、最終話にてその決算がなされたのはよかったと思います。
惜しむらくは、その尺の都合のせいでハヤテとキースの決着がつかなかったことですが。
総合的に、見たことを後悔しないレベル
「神作」「名作」「まあ面白かった作品」
「後悔はない作品」「なんで見たんだろう作品」
「これは面白いと自分に暗示をかけないと継続できない作品」
「単純に肌に合わなかった作品」
のどれかで行くと、マクロスΔという作品は見て後悔「は」ない作品といった印象です。
やはり、手放しで評価はできない印象で、個人的に一番面白く感じられたのは冒頭の数話くらいで、そこから中盤の中だるみが入り、終盤でなるべくして終わった、といった感想でした。
余裕があれば他のマクロス作品も見ようかと思っていますが、果たしていつになるやら。