徒然すぎて草。

君に顔はいらない。

人間なんか工場で作ってしまえ

今日、東大生やら京大生やら、日本の頭がよろしい人間を集めたトークショー番組を見ていました。

恋愛がらみの話題になると、さすがは頭のよろしい人間はモノが違うというか、

変にこじらせているみたいになっていて非常に面白かったです。

私も普段、こじらせているといわれる側の人間なので、

他者から見た自分とはこれほど滑稽な存在であるのかと感心すらしました。

 

現代の若者論として「恋愛離れ」が衆目を集めているこの頃ではありますが、

案外、恋愛への願望やら幻想やらを保持している人間が多いのだな、とも感じました。

二次元しか愛せないと宣う若者に対し、

(リアルを知らないのは)「大トロを知らないでツナで満足しているのと一緒」と

言い放つご婦人の言葉は、

他者との関係を総合的に見てポジティブに捉えることの眩しさとそれに対する敵意と憎悪、

そして言いようのない残酷さを感じないではありません。

なんというか、人間との関係を肯定する言葉の裏に、

「人間とはかくあれかし」「人との絆は素晴らしい」

といった意志が混在しているように思えるのは私だけでしょうか。

おそらく、私の感じる残酷さとは、「かくあるべき像」に

嵌ることの出来ていない人間がある意味、存在レベルで否定されているのでは

なかろうか、という点なのだと思います。

ところで、「かくあるべき姿」とはなんだろうな、と考えると、

キラキラしていたり、若かったり、ということもありますが、それ以前に

恋人を作って友人に囲まれ、働き、子供を産み育てる姿なのだろうな、

という風にはぼんやりと思います。

ですが、そんなことはほかの生物が群れを作ってつがいを作り、

ポコポコ繁殖することとなんら変わりありません。

まぁ、そんな畜生でもやっていることが出来ていないのが現代日本の若者なのでしょう。

ですが、逆に考えましょう。

人間はそろそろ畜生の本能から逃れてもよいのではなかろうか、と。

恋愛もセックスも繁殖のためにある程度必要なプロセスでありながら、

それに食指が動かないというのは、もはや種として繁殖を拒んでいるか、

繁殖を行う手段としての恋愛とセックスがオワコンであることのどちらかではないでしょうか。

種のレベルでこれ以上増えることを望まないなら、そのまま滅んでも構わないと思う一方、

恋愛とセックスが繁殖の手段として通じないなら、新しい繁殖の方法を作るしかないでしょう。

その新しい方法として私が考えるのは、人工子宮による人間の工場生産、

といったところです。

単価いくらかで人間を生産し、用途に合わせて職業訓練や教育を施す。

そうした人間を野に放てば、現状ではカオスになっていることがある程度秩序だって来るように思えます。

成長の過程で欠陥がみられるなら、リスクヘッジで廃棄することに感情の挟む余地が生まれないことも利点かと思います。

字面で行くと気味の悪いようにも思えるかもしれませんが、なんのことはなく、

社会の歯車がより歯車らしくなるだけのことです。

勘違いしがちなのは、人間が生きていることそのものに価値があるのではなく、

生きている上で何をするかに価値があるということで、

その点でいえば、何をするかがあらかじめ決められていて、

それに合わせてデザインされる人間は、きっと全員が価値のある存在となるでしょう。

加えて、価値のある人間たちが、自分たちを作った社会や世界のために、

己の存在意義をかける姿はおそらくキラキラしていることでしょう。

キラキラが好きな方々、見ていますか?

ここにあなた方の好きな世界がありますよ。

この世界の中では自分の使命さえ全うしていれば、

それ以上に他人と関わりあう必要もなく、おそらく幸福でしょう。

 

現代の、恋愛に対する幻想を引きずった観点では、

「大トロを知らずにツナで満足する」ことがまるで悪であるかのようですが、

そもそも大トロなどという部位は江戸時代には

「猫またぎ」=猫もその上をまたいで見向きもしない

とまで言われた部位であり、ただのゴミでしかなかったわけです。

ゴミをありがたがるのは一種の享楽的趣味と言えなくもなく、

ゴミに価値をつけるのは経済的・商業的に利となる行為ではありますが、

ツナで満足することもまた悪いことではないでしょう。

ツナで満足することなど、

自らのさもしい根性を「美徳」と言い換えて

ありがたがる日本人の得意技ではありませんか。

そして、そんな犬畜生にも劣る日本人から先に、

生物の本能から逸脱して、

機械のように生み出されて、機械のように生き、機械のように死んでしまえばいい。