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徒然すぎて草。

君に顔はいらない。

青春未だ来たらず

坂口安吾という作家はその昔、こう書いた。

「青春再びかえらず、とはひどく綺麗きれいな話だけれども、青春永遠に去らず、とは切ない話である」

安吾はこの後に、永遠に去らない青春にはうんざりする、癒しようのない袋小路のドン詰まりと評しているわけだが、

イザ私のこれまでを振り返ると、青春というものがあったか疑わしい。

小学生を青春として振り返るのはなんだか切ないを通り過ぎて情けない気分になるし、

中高時代はこれはこれで、それなりに殺伐としていた気がする。

なにしろ学年の3分の1ほどの人間をいけ好かないと思い、

 参考書を新聞紙代わりにして害虫を叩き殺すくらいの気分でいたからだ。

男子校で、まして合コンをセッティングするような友人などいるわけもなかったから、

浮ついた話は一つもない。

 大学時代もその延長といった様子で、中高時代となにが変わったかといえば、

要らぬちょっかいを出してくるバカがいなかったくらいのことで、

叩き殺すべき敵がいなかった分、張り合いを維持するのに苦労した。

 

こうして思い返せば敵意と憎悪をたぎらせた年月が

青春と呼べなくもないのだが、これは決して「あの頃はよかった」

と呼べる類のものではない。

思い出せば腹の立つことばかりである。

 

逆に、あの頃はよかったと言える時期がないわけではないが、

その時期は人間よりも書物に向かっていた時期だったので、

なんというかこれも世間一般の青春とはかけ離れている気がしないでもない。

 

こうなってくると青春とは何を指すのかから定義しなければならないわけだが、

おそらく、私の根底にあるのは、

世間様の掲げるキラキラした、

若さを礼賛した、エネルギーに満ち満ちた10代半ばの時期への憧れである。

しかし、その適齢期を敵意と憎悪で過ごしたものだから、

それを色々と拗らせて非常に面倒なことになっているし、

青春など未だ来ず、来ないものであるとあきらめている節さえある。

諦めだけならまだいいが、キラキラしたものへの憎悪を抱いてしまうと

もはや救いがない。

とはいえ、誰もが教科書通りの青春を過ごしているわけではない、

そして、まやかし・幻想であることも理解しているつもりではある。

結局、青春未だ来たらずとする私の感覚は、

得ることのなかった実感によるものにすぎないので、

全て忘れてしまえば楽になることは間違いないとも思える。

 

ところで、私の抱く青春のイメージは

恋愛的要素と切っても切れない関係にあるわけだが、

コレが全く自分のものとなる気がしない。

というのも、誰のことも好きになる気がしないのだ。

以前、親に「あんた、誰のことも好きにならないんでしょ」

と言われた覚えがあるのだが、その通りで全く笑ってしまう。

好きになった誰かのために頑張るという概念がピンとこず、

むしろ誰かを憎み、いつか殺してやるくらいの気概でないと力が出ない。

 

中高の頃は特定の誰かを憎み、大学に上がってからは

対象がさらに広がって、希薄になった気がする。

しかしこんなものは中二病患者が

「皆死ねばいいのに」というのと変わらない。

青春は来ないが中二病に限りなしとは、なんとも救いがたい話ではある。