徒然すぎて草。

ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん

必要は学習の父

「必要は発明の母」

という言葉がある。

物事をクリアする必要があって初めて、新しい発想が生まれて実用化される、

そんな言葉だ。

思うに、人類はこのルーチンによって毛深いサルから着々と進歩してきたのだろうし、

頭脳労働が駆逐される未来――つまり人間が人間である価値を失うまでにおいて、

世界はそのように回っていくだろう。

最近、私は似たようなことを経験した。

「必要は学習の父」だ。

必要は発明の母なのに学習の父でもあるのか? と思われた方は、

必要という概念に、次にあげる言葉のどれかを当てはめるといい。

アンドロギュヌス半陰陽ふたなり、男の娘……

今、妙な言い回しをした弁解をする「必要」があったために、

必要という概念に奇怪な性別を当てはめる思考法が「発明」されたわけだ。

必要という概念は男の娘である。しかも子持ちだ。

どんどん使ってくれて構わない。

さて、本論に戻ろう。

人間は何かをする必要があると感じると、学習効率が上がる、という話だ。

試験のため、資格のため、レポート・論文の字数を増やすため、

人はいやが応にも何かを学び、吸収し、一定の結果を残さなければならない

タイミングというものが存在する。

それは例えば、2年前に習熟を諦めたゲーム理論の分野を、

論文の字数を増やすために泣きそうな思いをしながら勉強する、

といったことだったりする。

思うに、たいていの人間は

「出来なくても、やらなくても死にはしない」

物事について深く考えられるほど上等に出来ていない。

私もそうだ。

あれこれ理屈をつけて理解を拒み、

期末考査を2日後に控えていながらアニメを見て、

挙句最終話でボロ泣きする気持ち悪いヲタクがいたのだ。

(ちなみに見ていたのはSolty Reiという作品だ。

OPのcloverという曲が最高だからぜひ聴いてほしい。)

案の定、試験の結果はまあ散々だったし、

ゲーム理論とかいう名前だけは妙に面白そうな分野になど

2度と触れるものかと思っていたのだが、運命は皮肉なものである。

文章を書くためには、最低限理解をしていなければならない。

それがたとえ一度は諦めた分野でも、だ。

 

……かくして、諸々の作業を終え、私はいま人生そのもので

一息ついているような感覚を覚えながらこうして記事を書いている。

 

補遺:必要があると分かっていても動けないのも人間

私は常々、人間というものをあまり信用していない。

「痩せなきゃ~」とか言っている女子大生は

メロンパンを平気で食べているし、

単位……単位……と乞食のような呻き声を漏らす学生は

たいてい、マトモに勉強していない。

本を読む時間がないよ~、という人間は

胡乱な目つきでSNSやソシャゲをやっている。

これは電車で多く見られる。

かくいう私も、

「幸福になるために何も考えないぞ!」と、

絶えず取り留めのない思考をこねる救いようもない生物だ。

 

世の成功者たちは「強い意志があれば何でもできる!」という。

それはそうだ。

強い意志はなにものをも可能にする力があるだろう。

真理だ。彼らは真理に至っているのだ。

が、それに至る人間の絶対数が多くないことを

我々は経験則から知っている。

必要を感じても「死にはしない」ので動かないのが

人間のスタンダードである。

かといって、死の危機に瀕したら人間は動くのか、と問われると、

それは確かにそうかもしれないが、生きにくい世の中なのは間違いない。

問題を常に解決することを求められる世界では、

一握りの人間しか生きていくことは出来ないだろうし、

もしそんな世界になれば百を数えるうちに人類は種として死に絶える気がする。

つまり、必要があっても動けない人間が大半を占め、

とりあえず生きてはいられる今の世の中、

というかこの国は実はとても平和だといえる。

もちろん、ずっと同じ日が永遠に続くわけではないのだが。