徒然すぎて草。

君に顔はいらない。

「天下り」の天とは。

常々、「天下り」という単語について思っていることがある。

それは、天下りという単語そのものがなんというか、

実態に反して高貴な感じを漂わせているということだ。

天とは天上人、すなわち広義で言えば神であり、

それが下るということは、

日本神話的解釈で「天孫降臨」になぞらえられる

現人神の現出であると言えなくもない。

高級官僚というとこの日本においては

エリート、いけ好かない存在、白痴にして暴利を貪る伏魔殿の住人

といったイメージでとらえられることが多いように感じられる。

そこまで悪いイメージとはいかずとも、

「おじいちゃんが官僚だったから私もそうなりました」

と公言してはばからず意志を感じさせない人間もいるにはいる。

が、官僚の中には真剣に日本の将来について考えた結果、

物事を動かせるエリート路線を選んだという、

志高い人間もきっといることだろう。

そうであると信じたいし、そうでなかったらこの国は今ごろもっと、

ソドムの市もかくやと言わんばかりの悪逆に満ち溢れていることと思う。

とはいえ、志高い人間は所詮人間である。

神と呼ぶにふさわしい存在は人柱か死人だけであり、

天と呼ぶのはいささかやりすぎな気がする。

生きた人間につけるにふさわしい称号は

せいぜい、超人か英雄くらいだろう。

ましてや、「天下り」の利益にあやかる人間はどうか?

天と呼ぶにふさわしいか?

下ることで何の利益をもたらすのか?

人々の憎悪と嫉妬、軽蔑を一身に浴び、

なお強欲と暴食に身をやつす「存在」がいるとすれば、

それはもはや神ではない。邪神ですらない。

邪神には邪神なりのカリスマがある。

しかして、「存在」は人を狂信に駆り立てる権能を持たない。

それは金と権力にまみれ、堕ちるものだ。

負の概念の吹き溜まりは穢れと捉えられる。

故に、「天下り」などではなく実態は「ケガレ堕ち」

とすら思うのだが、これはきっと流行らないだろう。

というか私自身、あまり流行っては欲しくない。

あまりに宗教色が強すぎるし、単語そのものが呪詛を放っている。

古くから、人を呪わば穴二つと言う。

ただでさえ自分が上に上がるのではなく

他人を下に降ろすことに正当性と快感を覚える傾向の強い

日本人のパーソナリティーにおいて、

呪詛は弾みが付けばひどいレベルで氾濫するだろう。

丁度、強い否定の言葉が流行ればどうなるかは、海の向こう側、

偉大なる(白人のための)国家を取り戻すと公言した国に住む、

言葉に影響されやすい「善人たち」が

都市の真ん中や空港のロビーでよき例を見せてくれている。

しかし、私を含め多くの人間は歴史から何も学ばないし、

経験からすら自分自身が身に染みなければ大した教訓を得ない生物だ。

日本人(特に地位の高い人間ほど)はなぜか、

白人のやることに追従したがる性質を持っているように見受けられるため、

この国でも遠からず似たような出来事は起こるのではないかと

考えているが、果たしてどうなるかはその時になってのお楽しみである。