徒然すぎて草。

ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん

軽井沢旅行備忘録

3日間の軽井沢旅行をしたので、その備忘録を記す。

軽井沢というとどうにもお高くとまったイメージがある。

避暑地という響き、外国人や作家、学者たち、果ては天皇家が好いた土地

であるという歴史からして、

しがない学生の身分では軽井沢という土地は

遠いどこかというイメージしか持たないのである。

これは神奈川の方に住んでいるという私の事情もあり、

なおかつ「新幹線で行くところは全て遠いところ」という観念からして、

かの土地への「遠方のイメージ」はより強化される。

だが、金さえ払えば行くことが出来るというのも事実である。

大宮から新幹線で1時間足らずの軽井沢は、

まだ雪の残った土地であり、かといって凍えるほど寒くもない、

丁度いい塩梅の気候といえた。

 

私がこの土地でやったことは主に4つ。

山登り。

旧市街地の散策。

美術館の鑑賞。

アウトレットでの買い物。

 

山登りに関しては初めからやるつもりはなくて、もともと旧市街地へ向けて

レンタサイクルを滑らせていたら興が乗って山を登ってしまった、

というくらいのものだった。

なぜたった一人で重たい自転車を引きながら山道を歩いているのか、

この不条理を私に課した人物は誰だ、と問いたくなる気分であったが、

残念ながら責任者は私自身なのだった。

山の方には数々の別荘が存在し、

維持をするだけでも毎年、途方もない金額を持っていかれるであろうそれらに、

私は舌を巻く思いがすると共に、こうした別荘の所持の有無は、

果たしてこれからの世の中でステータスになりうるのか、

といった点で深く考えさせられた。

日本の不動産市場は中古にとかく厳しいので、

別荘という資産の所有形態は正負どちらかといえば負に近いのではなかろうか。

 

旧市街地の散策。

これはあまり見どころがない。

なぜかと言えば土産店しかないからだ。

一応、古くからあるカトリック系の教会はあったが、

中を見るだけで終わった。

そもそも一神教の掲げる神の概念が気に入らないのだ。

全知全能を語るくせに何もしない無能者。

全ての善と悪が手のひらのうちにあると騙る傲慢さ。

こうした要素が本当に気に食わないので、祈ることだけはしないと決めている。

 

美術館。

モダンアートがメインの美術館で、

行ったときは特別展示として

シュールレアリスムの展示をやっていた。

マックス・エルンストという作家の

「百頭女」という作品の原画が全て並べられていた。

エルンストに限らず、館内の作品を見ていて思ったことがある。

それは、

美術作品へのコメントをつけるには、

歴史の勉強、理屈付け、感情の言語化訓練が必要であるということだ。

私はこれまで、美術作品を見ても「ほーん」という風にうなずくだけで

少しの感情も頭をかすめていかなかった。

おそらく、多くの人間も同じなのではないかと推理している。

美術評論家でない多くの人間にとって、

美術作品に対してコメントをするのは至難の業である。

そしてその原因は、

コメントをするための中身がその人間の中に用意されていない

という点にあると思う。

中身がなければ言葉で飾ることも出来ないのだ。

だから、理屈付けがいる。

「これこれこういう理由があるから私はこの作品に対してこう思う」

「あれこれの理由があるからこの作品はああなんだ」

といった語法によって、作品の輪郭を掴んだ気になれる。

そして、この語法の中に存在する指示語・代名詞を埋めるのは、

作品のバックグラウンドを知ること、すなわち歴史の勉強をすることが

役に立つのではないかと思う。

そして、知識を元にこねた理屈を感情と絡めて言語化することで、

美術作品へのコメントは完成するのではないか……?

と現時点での私は愚考する。

 

シュールレアリスムの訳語は「超現実主義」。

一方で「現実を超える」とは何か。

美術館で説明を一度読んだきりだから覚えていることが曖昧である。

エルンストの「百頭女」に限って言えば、

よく見れば非現実的な描写ばかりなのに、印象としては現実的な情景として

受け入れられる、という妙な感覚のする作品群だった。

非現実を描くことで現実の姿を浮き彫りにする……のだったか。

 

アウトレットでの買い物。

ダイホウイカ2枚分の値段がするシャツを買った。

ダイホウイカ1枚分の値段がするベルトも一緒に購入。

「おい、そこのお前、そのシャツとベルトに含まれているダイホウイカは

ダイホウイカ3枚分だぜ!」みたいな声が聞こえてきそうである。

入ったのはポールスミスだったのだが、

このブランドの柄シャツはクソダサとシャレオツのちょうど中間みたいな

デザインのものが多いように感じられた。

印象深かったのは、

鮮やかな赤い生地の中で真っ赤なフラミンゴがこちらをぎょろりと覗くモノや、

一見、アロハシャツ的なように見えて、これまたぎょろりとした眼のバンビが

こちらを覗いているモノといったたぐいのシャツだ。

一瞬、フラミンゴ柄には惹かれるものがあったのだが、

(ダイホウイカ1枚分くらいの値段だったのも追い風だった)

冷静に考えて「フラミンゴは『ない』な」となってスルー。

ちなみに、

一度足を向けた翌日に店に入ったら件のシャツはなくなっていたので、

勇気ある誰かが買ったのだと思われる。

これまたちなみに、バンビのシャツは一枚も減っていなかった。

そりゃそうだ。

これまで、服を買うということに楽しみを見いだせなかった我が身であるが、

この歳になってみるとなんとなくわかるような気がしてきた。

とはいえ、布に数千、数万円払うのもアレ、

みたいなところがないわけでもなく、

となれば服に金を使っても全く気にならないくらいに稼ぐのが

正しい道であろう、と思った次第だ。

 

軽井沢の旅は新しいものに触れる機会があったと共に、

私の今後の人生設計においても金銭感覚の面で

多くの意義をもたらしてくれたものだということでこの備忘録を〆ることとする。