ハズキルーペCMは欲望の具現である
ハズキルーペのCMはターゲット層の欲望を巧みに現出した芸術
最近、ハズキルーペのCMを見て 、軽く感動した。
何に感動したのかと言えば、
ターゲット層であろう中高年男性の欲望を潤沢な予算で現出した、マーケティングの芸術と思えたからだ。
まだ観ていないなら↓で見てみてほしい。
CMは武井咲が扮するキャバクラのママが、
ハズキルーペを店で売り出すと宣言するところから始まる。
お分かりだろうか。戦いは既に始まっているということを。
ハズキルーペはその商品の性質上、中高年をターゲットとしている。
その中でもあえて「キャバクラ」という舞台を設定することで、
「この商品は中高年の『男性』のあなたにガンガン売っていきますよ」というメッセージを暗に伝えているのだ。
消費者のイデアル
ほどなくして、嬢たちが迎える中を小泉孝太郎が相当慣れた様子で来店する。
ここにも、製作者の作りこみを感じる。
おそらく、このCMにおける小泉孝太郎の役割は、
ターゲットである中高年男性のセルフイメージあるいは理想の姿だ。
彼らは自分のことをまだ若いと思っているかもしれないし、またそうありたいを思っている。
だが、若すぎない。これが大事だ。
また、この高級そうなクラブに慣れた様子で出入りできるということは、財力に相当の余裕がある。
適度に若く、財力がある小泉孝太郎は、消費者の理想のペルソナとなって武井咲に迎えられる。
小泉孝太郎は、
- パソコンで目が疲れる
- 字が細かくて見えない
という中高年にありがちな悩みを、時に普通なら滑る芸まで見せて現して消費者と同化する。
武井咲はそんな彼を労い、あろうことか滑る芸を見せたことに対して「お上手ね」と宣う。
しかもその姿に分かりやすい媚びは存在しない。
ビジネスライクさはあるが、そんなことは分かっている。
全てが消費者のために構築された空間で、承認を得られる。
なんという自己承認ワールドだろうか。
隙を生じぬ二段構え
CMは進み、商品のウリを説明していく。
この舞台に捉えられた消費者の心は、宣伝文句を受け入れる準備が出来ている。
ブルーライトをカットし、重くなく、
武井咲のかけているルーペへ視線を移動させ、さりげなく新色まで宣伝する。
だが、ただここで視線を動かすだけではない。
視線を動かした先に、更なる仕掛けを用意しているのがこのCMだ。
武井咲の方へ視線をやった小泉孝太郎に、とある人物の姿が映る。
舘ひろしだ。
なんということだろう。
舘ひろしといえば、中高年男性が憧れるダンディの代名詞じゃないか。
小泉孝太郎でおなか一杯になりかけていたところに、
舘ひろしを投入することで視聴者を飽きさせない工夫が見える。
すごい、すごいぞ、ハズキは二度刺す。
しかも、ちゃっかりとサングラスタイプも出ているぞ、という宣伝までついている。
皆もサングラスタイプをかけて舘ひろしになろうというわけだ。
サブリミナル原風景~ゾウが踏んでも壊れない筆箱を添えて~
ハズキルーペの攻勢はまだ止まない。
武井咲がおもむろに、嬢たちに「ハズキルーペ」を(椅子に)置けと命じる。
一体何を見せてくれるのだろうか。
そう思った我々は、嬢たちが次々とルーペを尻に敷く姿を目にする。
二度ならず三度までも、しかも嬌声をあげながらだ。
尻に敷かれても壊れないハズキルーペ。
それは奇しくも、今時の中高年が少年だった頃、
世間で話題になっていた「ゾウに踏まれても壊れない筆箱」の姿と重なる。
少年の頃の原風景が、キャバ嬢の尻という性的なモチーフで再現される。
口ではどんなに「品がない」とは言っても、少年の心と息子は素直なのだ。
さらに、小泉孝太郎は「この強度、流石メイドインジャパン」と宣う。
そう、丈夫で質のいい製品は、若かりし頃の強い日本の象徴である。
これも一つの原風景であろう。
さらにCMが進み、ギフトに最適といった文言が流れると共に、
再度、ルーペが嬢の尻に敷かれる映像が流れる。
一度ならず、二度までも。
そう、ハズキルーペはすごい! 本当にすごいんだ!
これにはカラデシュに大興奮していたマロー氏もニッコリであろう。
おわりに
正直なところ、このCMを見た時は、
「予算スゲー」
「消費者のことをかなり考えて練り上げられた企画に違いない」
と思った反面、
「よくもまあこんな即物的なCMを作ったもんだな」と思った。
巷でも、気持ち悪いといった意見があるようだが、それはある意味当然の話である。
CMという媒体が、消費者の欲望に火をつけて購買行動に移させるというものである以上、
その欲望の見せ方は、感情を掻き立てるほど分かりやすくなければならない。
そして、欲望とは決して手放しで肯定されることのない、気持ち悪い側面を持つモノである。
だが、欲望がなければ何も動かないのも事実なのだ。
近頃、表現の面で小うるさい言説をよく耳にするが、
そうした口を持って自分たちがあたかも正義の使徒であるよう振る舞う彼らは、
正義であろうとすることそのものが欲望であることに無自覚であり、
どんな英雄も聖女もやがて堕落し、腐り果てることを知らない。
そうした人間たちの言説がはびこる今の世の中で、
このようなCMを見られたことに私は喜びを感じる。
欲望の賛歌は人間の賛歌なのだ。
最後に、厳密な意味で言えば全く違うのだが、それっぽく締めるために、
アレイスター・クロウリーの著書から次の言葉を贈りたい。
「汝の意志するところをなせ。それが法の全てとならん」