人間を生産しろ
コラムから出た思想
今日、カレー沢薫メシアが子育てに関するコラムを書いているのを見た。
突然カレー沢薫メシアとか言われてうわコイツどうしたんだ、と思った人のために補足をしておく。
カレー沢薫とは、かつてモーニングでプロレタリアート系猫漫画『クレムリン』や、ゴラクで「ねこもくわない」などを連載した経験を持ち、最近では各地のサイトでコラムを書いている、漫画家・コラムニストである。
気になった人はどんな人かググってみてほしい。
さて、子育てに関するコラムの話に戻る。
内容は大まかに言って、
現代の日本で子供を産むというのは、入れるかも分からない「保育園ガチャ」という博打に挑まなければならない上、少子化という問題の解決に貢献しているにも拘らず、産んでいない人間からなぜか白い目で見られる行為なのだ、
というものだった(はずだ)。
私はこれを読んで、「やはり人類は工業的に、一個体いくらというレベルで生産されるべきだなあ」と思ったのだが、突然こんなことを言い出しても狂ったかのように思われるのは癪なので、ブログの記事がてら思想を書いていくことにする。
状況の整理
まず、現在の人口生産に関する日本の状況を整理したい。
一人で生きていくのがやっとか、もしくは誰かを養う余裕がなく、
子どもを産むことに憧れながら諦めるか、共働き前提で産んで保育園ガチャに挑む。
情報の流通によって子育てがまるで地獄であるかのような様相を見せつけられ、
かつ、自分たちの人生すらあまりよくないので、将来的にこの世界に産み落とされる子どもの未来も明るくは見えない。
そうなると、もはやエゴでも子どもを産み育てるというのはコストに見合わない行為になってくる。
コストを見つめて合理的に考えれば、一個体がこの国で得られる最大限の利益を享受する方法は一つに絞られる。
それは、自らは子どもを産まず、他人が産み育てた労力にフリーライドする形だ。
世代比較で言えば、ベビーブームで生まれた人間たち、そして今の若者とされる人間も同じく、人としてまっとうな他人の払った労力に規制して生きている。
ただし、一昔前の豊かだった時代の人間が行うフリーライドに比べ、若い世代の行うフリーライドは、火を点す爪を得るかのような、さもしく、惨めな、だがしないよりはマシというものになるだろう。
世界はいつだって、他人の上前をピンハネする個体が栄えるように出来ている。
そして、全ての個体が賢しく生きる世界は、それゆえに滅ぶのである。
フリーライドの限界、人口の崩壊
ただ、フリーライドするにも限度がある。
他者のカンパを頼りにして公共投資をサボってみれば、出来上がるのは何に使うかも分からないみすぼらしい施設になることもあるし、
二人の囚人は自分が有利になろうとするあまり、二人そろって最大級の刑期を食らう羽目になる。
さらに、自分だけ少しだけでもマシに生きていこうと思っても、寄生するための他人が滅んでしまっては元も子もない。
我々日本人が親の世代から言われ慣れている、日本人という人種の絶滅や、それより前の社会制度の完全な崩壊はとても現実味のある未来像だ。
そして、その未来には、わざわざ子どもを産み育てようなどと思う人間は殆どいない。
人口を生産し、教育し、社会に還元するのが政府の役割になればいい
もはや子どもを積極的に産み育てようとする個体がいない中、仮に日本人を残そうと思うならどうするべきか。
結論から言えば、政府が技術とコストをもって人間を工業的に生産し、教育を施し、社会に送り出し、その恩恵を政府と社会に還元させることだ。
全ての個体が子供を育てるか否かという観点で合理的に、賢しく生きるとしたとき、社会の富のバランスは産まない方に比重が傾き、産む方が割を食うことになる。
この時、政府に求められるのは、割を食う側への補填、つまり福祉である。社会全体で見れば富める者を富ませ、貧しきをさらに叩くことが最大効率への道なのだが、そうすると治安が悪くなるので、政府は余分なコストを支払って貧しきを救わなければならない。
こうした例で最も上がりやすいのは生活保護だとか、健康保険といったものになる。
子どもを産み育てるという観点で言えば、子育てに関する援助金がそれに該当する。
だが、今は援助金がコストを埋め合わせるには足りていないのが現状だ。
それでは、金銭的な問題が解決されれば子どもを産む個体が増えるか?
おそらく、増えはするだろう。私個人の感慨としては、子どもなどは幸せな家庭という親のエゴとこらえ性のなさで産み落とされるものだし、一人程度であれば産める者は産む、程度のものだ。その人数制限のタガが金で外されるなら、望む者は更に増えるだろう。
だが、全体はどうだろうか。どうせ人間のことだから最悪のことを考えよう。
殖えることを望む者がいる一方で、人と結びつくことを好まない人間もいるのである。
配偶者や恋人の有無、恋愛感情に関する統計データでもその傾向は顕著だ。
その勢いは更に加速していくことは想像に難くない。いずれ、個人と個人の間ではどうしようもない断絶が生じた時代が来ることと思う。
こういう話題になると、若者が虚構にかまけるからだ、とか、積極性に欠ける、といった話が出てくることが多いと思われるが、そんなことは虚構に魅力で負け、積極的に動く気も起こさせない現実の人間の価値のなさが諸悪の根源だ。
我々は情報技術によって多くの価値観、つまり価値あるべき虚構を知り、他者の得た苦痛をいつか降りかかるコストとして、それを避けるための知識を知った。
さらに現実の頼りなさ、価値のなさを知ったから、いつか降りかかるコストを避けるには防御するでもなく、ただ無自覚に見切りをつけただけに過ぎない。
いかに多様性の時代といっても、それは技術の発達によって個体が多くの物事を知られるチャンスが増えたというだけで、知ったことを理解できるか、受け入れられるか、は全く保証しない。人間一人に受け入れられる個性の数など、たかが知れている。
例えば、世界の人間を二種類に分けて、受け入れられる人間の境界を決めてみよう。
若者か、老人か? 特定の思想を持つか否か? 男か、女か?
様々な観点があるだろうが、究極的に収束するところは、「自分か、それ以外か」の程度でしかない。自分すら受け入れられないものは産まれ落ちた世界を呪うか、命を絶つかのどちらかだろう。
このようにして、個人の断絶が進めば、好き好んで他人と繋がって子どもを産みたがるような個体は存在しなくなるのは当然のことで、その結果、民族が滅びるのは全く不思議ではない。
滅ぶなら滅んでしまえばいいと思うが、もし、政府が国としての姿とその実体を望むのなら、これはもはや政府自らが公共の福祉として「人口を生産」するしかない。
何らかの技術をもって、単価いくらで人間を生産し、育て、教育し、労働させ、政府に還元させる。
これこそが究極の社会福祉ではなかろうか。
それに、人間の生殖は個体ではなく政府が司るのだから、もはや人間に生殖のための性別も必要なくなり、ジェンダーの役割からも解放される。いっそ性別など失くしてしまえば、くだらない男の性欲も、女が抱えていると主張されるハンデもなくなる。
これは多少、現在の人間が望む姿と比べれば歪んでいるかもしれないが、それでも今よりはマシではなかろうか?
むしろ、無性もしくは中世の人間という像は、天使のような宗教的シンボルのようで、天界のイメージが近しいように私には見える。
倫理の壁
人間とはかくあるべし、といった話をすると、倫理という観点が必ず前に立ちふさがる。それは、倫理というものがまさしく、人よかく在れ、と時代に応じて定められる概念だからだ。
だから例えば、今の私のように、人間は単価いくらで生産されるべきだ、などと言うと、それは命の価値をあまりにも軽んじすぎでは……という答えが返ってくる。
命の価値を大事に考えるのは、今ならではの考え方だと私は思う。
(私は今の時代の人間なので、どうせ生きるからには何か価値があるべきだと思うし、どうせなら楽しい方がいいとも思うのだが、一方でどうしようもなく辛かったり世界が呪わしいのなら、それをすっぱり切り捨てるぐらいの価値の軽さでもいいと思う)
なぜなら、断絶が進めば皆大事なのは自分の命だけであって、究極的な話をすれば他者の命などは知ったことではなくなるからだ。その状態で、単価いくらで生産されるような無性人間の価値など、かかったコストと将来見込まれる利益の差し引き額以外に何を見出すのか?
当然ながら、すぐに変化は起きない。
人が他人に対して冷酷さを増し、興味が薄れ、いつかそれが致命的なものになったその時までに、人間の胎を借りずに人間を生み出す手段・技術が生まれればいいと思うが、どちらが間に合うのが先だろうか。
「そもそも人間をコストと期待をかけてまで、生産する意味ある?」と考える人間が多数を占めればそれだけで私の思い描くユートピアは壊れるのだが、どうもその方が可能性があるような気がしてならない。