徒然すぎて草。

ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん

人間の繁殖工場で検索検索ぅ♪

近頃、ウィクロスのモチベ(というかデッキ記事を書くモチベ)があまりないので、

思想記事ばっかり書いていたのですが、その中の一つ、

 

persona-kaza310.hatenablog.com

 コレがなかなかにアクセスを集めていることに気がつきました。

 

さらにアクセス解析をよくよく見ると、検索ワードに、

「人間繁殖工場」

という面白そうなワードがありました。

 

ちょっと気になったので自分も検索してみることに。

すると……ヒットしました。

「食糧人類」

という漫画のレポを書いたいくつかのブログ記事が。

www.mangayonda.xyz

どうやら、人間が家畜同然に飼われていて、

文字通りの「食糧」にされているという世界観のようです。

 

私が人間を工場で作ってしまえと論じたのは、

あくまで人間の、人間としての幸福を思ってのことですが、

この「食糧人類」について言えば、

人間は人の形をしているただの肉に過ぎないようです。

人間を肥え太らせる手法はフォアグラの製造過程のようであり、

なんというか、合理的な気がしますね。

一方人間を産ませるのに発情剤と排卵剤を用いるのは、

物語に華を添えるためなのでしょうね。(あんまり抜けるシチュじゃないんですけどね……)

 

人間の絶対数を増やす手段が用いられている・描写されているSF作品は数多く存在します。

f:id:persona-kaza310:20161120100058p:plain

その中でもオルダス・ハクスリーという作家が書いた

すばらしい新世界」という作品には、

「ボカノフスキー法」と呼ばれる、

1つの卵子から最大で96つ子を作るための人間の大量生産法が描かれています。

当作品の世界では、人口と社会を維持するべくこの技術が使われ、

生み出された人間は生まれながらに階級分けされ(カースト制度みたいな)、

それぞれの階級の暮らしに幸福を覚えるように刷り込み教育が行われています。

 

この人間の大量生産と刷り込み教育は、社会の維持のために、

人間としての幸福を保証するところに重きが置かれているので、

「食糧人類」に描かれた人間の量産とはちょっと毛色が違いますけどね。

 

100年ほど前にかかれた小説ですが、今読んでも十分に面白い作品なので、

人類の大量生産に興味を持った方は、

「食糧人類」と一緒に探してみてはいかがでしょうか。

青春未だ来たらず

坂口安吾という作家はその昔、こう書いた。

「青春再びかえらず、とはひどく綺麗きれいな話だけれども、青春永遠に去らず、とは切ない話である」

安吾はこの後に、永遠に去らない青春にはうんざりする、癒しようのない袋小路のドン詰まりと評しているわけだが、

イザ私のこれまでを振り返ると、青春というものがあったか疑わしい。

小学生を青春として振り返るのはなんだか切ないを通り過ぎて情けない気分になるし、

中高時代はこれはこれで、それなりに殺伐としていた気がする。

なにしろ学年の3分の1ほどの人間をいけ好かないと思い、

 参考書を新聞紙代わりにして害虫を叩き殺すくらいの気分でいたからだ。

男子校で、まして合コンをセッティングするような友人などいるわけもなかったから、

浮ついた話は一つもない。

 大学時代もその延長といった様子で、中高時代となにが変わったかといえば、

要らぬちょっかいを出してくるバカがいなかったくらいのことで、

叩き殺すべき敵がいなかった分、張り合いを維持するのに苦労した。

 

こうして思い返せば敵意と憎悪をたぎらせた年月が

青春と呼べなくもないのだが、これは決して「あの頃はよかった」

と呼べる類のものではない。

思い出せば腹の立つことばかりである。

 

逆に、あの頃はよかったと言える時期がないわけではないが、

その時期は人間よりも書物に向かっていた時期だったので、

なんというかこれも世間一般の青春とはかけ離れている気がしないでもない。

 

こうなってくると青春とは何を指すのかから定義しなければならないわけだが、

おそらく、私の根底にあるのは、

世間様の掲げるキラキラした、

若さを礼賛した、エネルギーに満ち満ちた10代半ばの時期への憧れである。

しかし、その適齢期を敵意と憎悪で過ごしたものだから、

それを色々と拗らせて非常に面倒なことになっているし、

青春など未だ来ず、来ないものであるとあきらめている節さえある。

諦めだけならまだいいが、キラキラしたものへの憎悪を抱いてしまうと

もはや救いがない。

とはいえ、誰もが教科書通りの青春を過ごしているわけではない、

そして、まやかし・幻想であることも理解しているつもりではある。

結局、青春未だ来たらずとする私の感覚は、

得ることのなかった実感によるものにすぎないので、

全て忘れてしまえば楽になることは間違いないとも思える。

 

ところで、私の抱く青春のイメージは

恋愛的要素と切っても切れない関係にあるわけだが、

コレが全く自分のものとなる気がしない。

というのも、誰のことも好きになる気がしないのだ。

以前、親に「あんた、誰のことも好きにならないんでしょ」

と言われた覚えがあるのだが、その通りで全く笑ってしまう。

好きになった誰かのために頑張るという概念がピンとこず、

むしろ誰かを憎み、いつか殺してやるくらいの気概でないと力が出ない。

 

中高の頃は特定の誰かを憎み、大学に上がってからは

対象がさらに広がって、希薄になった気がする。

しかしこんなものは中二病患者が

「皆死ねばいいのに」というのと変わらない。

青春は来ないが中二病に限りなしとは、なんとも救いがたい話ではある。

 

 

思考のメモ書き:轢殺ピルルク

APEXを始めとした、耐久型かつリソースにあまり干渉できない

デッキが増えてきたなら、

  • 相手の防御布陣が固まらない間に轢き殺す
  • 相手のリソースに干渉する

この二つが出来るデッキが強いのでは?

たとえば、宝剣ウルバンの動きに龍滅ロックユーを絡めるといった

動きが出来るデッキあたり。

vermilionを使えばスペルはサーチ出来るし、ドローもそこそこ揃っている。

その代わり、非常に守りが薄くなるのと、

アイドルがケア出来ないという致命的な弱点が出ては来るものの、

今はアイドルがそんなに流行っていないように感じられるので、

轢き殺しに特化した構築はそれなりにワンチャンあるのでは。

ウルバン宝剣とアヴェンジャーも入れて、バーンとダブルクラッシュで戦う構築。

vermilionを始めとした2色ルリグサイクルとミカムネを併用すれば、

グロウコストにもさほど困らないでしょう。

龍滅・ロックユー・ドエス・V@C(または黒MGT)、Wキャノン……

ゴルドガンも入れたいけど絶望的に枠がなさそう()

×イフリードユキが強い 〇イフリードが強い

相も変わらずユキを回してて思ったんですが、

最幸+ヴェルサでアーツ枚数誤魔化すデッキなのに、

お手軽にヴェルサを除去してくるAPEXとかいうデッキが君臨しているあたり、

今のユキに希望なくないですか?

これはイフリードを入れればどうこうできるとかそんなチャチな問題ではなく、

ユキというデッキが根本からして持つ問題点です。

それでもイフリードを入れることによってゲームの流れが強いくなったのは確か。

と、いうことは……

イフリードユキが強いのではなく、

イフリードが強いだけだったんだ、悲しいなあ……

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夢でもし、バ〇バ〇死体を見たら

夢判断とか、あるじゃないですか。

歯を抜く夢は演技が悪いとか、トイレ掃除をする夢は運がいいとか。

夢判断・夢占いの歴史は古く、聖書にはヨセフが夢占いを通じて

エジプトの宰相にまで上り詰める話があるくらいで、

昔から人は、自分の見た夢になんらかの意味合いを与え、

未来への指針にすることを望んだのだなと思います。

私も昔の人間にならって、今日の夢の判断をしてみようかと。

なにせ面白い夢だったので。

(ここから夢の話)

私は旅行先で偶然、バラバラになった死体を見てしまいますが、

見て見ぬふりをして立ち去りました。

しかしその後、なぜか風俗的なバーに行った私は、

そこの従業員が取り出した箱から出てくるであろうモノ

に嫌な予感を覚え、その場から逃げようとするのするのですが、

いつまでたっても逃げるためのエレベーターが来ない……

(ここで目が覚めた)

おそらく、夢の中の私は、バーで死体を見せつけられることを予感し、恐れ、

逃げることを選択したのですが、

逃げおおせたバーから後日、複数人の死体が見つかり、

その容疑者として追われる、という予感を夢の中で抱いていました。

死体を目にしていながら見て見ぬふりをしているあたりから、

バーでバラバラ死体がクーラーボックスか何かに入っている辺り、

なんとも夢らしい支離滅裂な展開です。

ですが、旅先やバラバラ死体というキーワードはなにかありそうですね。

と、いうわけでバラバラ死体の夢について調べてみましたよ。

spirituabreath.comhttp://spirituabreath.com/yumeuranai-shitai-2123.html

これによると、バラバラ死体とは、秘密がバレてしまうことへの不安や焦り

を暗示するそうです。

また、死体が意味するのは現状からの転換や人間関係の清算などだそうで、

旅行が意味するところは非日常や人生なのだとか。

余談ですが、死体の意味するところだけに関していえば、

タロットの"XⅢ Death"と通ずるところがあると感じられますね。

見知らぬ場所へ旅をし、見知らぬ人間のバラバラ死体を目にし、

という流れを考えると、全体としての意味合いは、

一つの場所にずっといることへの閉そく感とふさぎ込んだ気分の解消

を行うのがよい、といったところでしょうか。

どうも、こじつけ感がするのは夢の話なので仕方がないと割り切るしかなさそうです。

 

創作:美しい都

むかしむかし、あるところに、「美しい都」と呼ばれる場所がありました。

都には大勢の「目の見えない人々」と、

絵や物語、彫刻などを作る「芸術家」が隣り合って暮らしていました。

都は芸術家たちの絵画や彫刻で彩られ、

人々は物語を聞きながら、絵や彫刻のすばらしさを感じ、

自分たちの住む都を「美しい都」と褒め称えました。

 

ある時、教会からやってきた男女一組の「聖者」が都に現れました。

聖者たちは都のところどころに飾られた絵画や彫刻を見て、

卒倒しそうになりました。

聖者は口々に言います。

「見よ、あの恥ずかしげもなく肌を晒す裸婦像の浅ましさを。

見よ、血に塗れ目を輝かす英雄の肖像の悍ましさを。

聞け、この物語は神と仕える者を冒涜する言葉に満ちている。

聞け、この詩は人々の道徳に背いている。」

男の聖者は、物語を紡ぎ、詩を唄う芸術家たちに詰め寄り、

顔を真っ青にして言いました。

「君たちの作品は悪徳に満ちている。君たちの言葉は正しくない。

こんなものを生み出すのは、悪魔か魔女くらいのものだ」

一方、女の聖者は彫刻家や画家に詰め寄り、

顔を真っ赤にして言いました。

「あなたたちの作品は姦淫の穢れに満ちている。あなたたちの眼差しは正しくない。

こんなものを生み出すのは、神を知らぬ蛮人のすることです」

芸術家たちは揃って、聖者たちに白い眼を向けましたが、

聖者たちは諦めることなく、揃って同じことを言いました。

「呪われよ、悪魔の子らよ。我らの言葉は神の言葉だ、正しい言葉だ。

お前たちは間違っている。正さねばならないのに、お前たちはそれを拒んだ」

芸術家たちは揃って首を傾げ、それぞれの家に帰っていきました。

 

それから、聖者たちは都に住む「目の見えない人々」を集め、説教を行いました。

すると、今まで潰れていた目が開き、感じることしか出来なかった都を、

風景として感じられるようになりました。

目の開いた人々に対し、聖者たちはこう言います。

「神は信じる者を皆お救いになります。ですがこの都を見てください。

この都は猥雑で、悍ましく、血腥く、およそ神が救うに値する場所ではありません」

それを聞いた人々は戸惑いながら、そしてそこまでこき下ろすほどかな、

と思いながらも、聖者様が言っているのだから間違いはあるまい、と、

日に日に、神と聖者たちを信じる人の数は増えていくようになりました。

 

すると、どうでしょう。

今まで「目の見えない人々」であった住民たちが口々に言いました。

「これはおかしい」「これは正しくない」「直すべきだ」

なかには芸術家本人たちの家に乗り込み、文句を言う人まで現れました。

最初は、芸術家たちは文句を聞き流していましたが、

昼夜問わず文句を言われ続けるので、作品を作ることはおろか、

静かに寝ることも出来なくなってしまいました。

そんな中、

彫刻家の心が折れ、女性像は布をまとうようになりました。

画家の心が折れ、英雄像はただ座っているだけになりました。

詩も物語も、味気ない、決まった文章だらけになりました。

て、ある時、釈然としない顔で自らの作品を眺めていた

芸術家たちの前に、聖者たちが現れて言いました。

「この女性像は誰かが劣情を抱くかもしれない。

この英雄像は誰かが真似をして殺人を犯すかもしれない。

この詩や物語で誰かが不快な気分になるかもしれない。

これらは全て正しくない。神の言葉に従って直すべきだ」

芸術家たちは疲れ切って、聖者たちに問いました。

「それじゃあ、神の言葉とはいったいどのようなものなのかね」

聖者たちは満面の笑みを浮かべて言います。

「決まっているでしょう。我々と、この街の人々が正しいと信じる言葉ですよ」

 

1人、また1人と、都からは芸術家が姿を消していきました。

ある者は自分の彫刻が道端で砕かれていたことに涙し、

ある者は自分の絵画が切り裂かれていたことに怒り、

ある者は自分の書いた本が燃やされていたことに失望し、

やがて全ての芸術家たちが都を去ってしまいました。

聖者たちは、目の開いた人々に対して言います。

「これで神も、この都に住む人々をお救いになるでしょう。

なぜなら、この都に住む人々は正しいからです。

御覧なさい、一切の悪徳がこの都には存在しない、美しい都です」

聖者たちは満足げに笑うと、次の救うべき人々のいる場所へと旅立ち、

人々は再び、元の開かない目で聖者たちを見送りました。

聖者たちが立ち去った後も、

目の見えない人々の生活は昔も今もさほど変わりません。

昔は芸術家たちの作品を眺めているだけ、

少し前は聖者たちの言葉を聞いているだけ、

そして今は何もない場所で無為に時を過ごすだけ。

「美しい都」が、「清らかな都」とその名前を変えるのは、少し後の話です。

人間なんか工場で作ってしまえ

今日、東大生やら京大生やら、日本の頭がよろしい人間を集めたトークショー番組を見ていました。

恋愛がらみの話題になると、さすがは頭のよろしい人間はモノが違うというか、

変にこじらせているみたいになっていて非常に面白かったです。

私も普段、こじらせているといわれる側の人間なので、

他者から見た自分とはこれほど滑稽な存在であるのかと感心すらしました。

 

現代の若者論として「恋愛離れ」が衆目を集めているこの頃ではありますが、

案外、恋愛への願望やら幻想やらを保持している人間が多いのだな、とも感じました。

二次元しか愛せないと宣う若者に対し、

(リアルを知らないのは)「大トロを知らないでツナで満足しているのと一緒」と

言い放つご婦人の言葉は、

他者との関係を総合的に見てポジティブに捉えることの眩しさとそれに対する敵意と憎悪、

そして言いようのない残酷さを感じないではありません。

なんというか、人間との関係を肯定する言葉の裏に、

「人間とはかくあれかし」「人との絆は素晴らしい」

といった意志が混在しているように思えるのは私だけでしょうか。

おそらく、私の感じる残酷さとは、「かくあるべき像」に

嵌ることの出来ていない人間がある意味、存在レベルで否定されているのでは

なかろうか、という点なのだと思います。

ところで、「かくあるべき姿」とはなんだろうな、と考えると、

キラキラしていたり、若かったり、ということもありますが、それ以前に

恋人を作って友人に囲まれ、働き、子供を産み育てる姿なのだろうな、

という風にはぼんやりと思います。

ですが、そんなことはほかの生物が群れを作ってつがいを作り、

ポコポコ繁殖することとなんら変わりありません。

まぁ、そんな畜生でもやっていることが出来ていないのが現代日本の若者なのでしょう。

ですが、逆に考えましょう。

人間はそろそろ畜生の本能から逃れてもよいのではなかろうか、と。

恋愛もセックスも繁殖のためにある程度必要なプロセスでありながら、

それに食指が動かないというのは、もはや種として繁殖を拒んでいるか、

繁殖を行う手段としての恋愛とセックスがオワコンであることのどちらかではないでしょうか。

種のレベルでこれ以上増えることを望まないなら、そのまま滅んでも構わないと思う一方、

恋愛とセックスが繁殖の手段として通じないなら、新しい繁殖の方法を作るしかないでしょう。

その新しい方法として私が考えるのは、人工子宮による人間の工場生産、

といったところです。

単価いくらかで人間を生産し、用途に合わせて職業訓練や教育を施す。

そうした人間を野に放てば、現状ではカオスになっていることがある程度秩序だって来るように思えます。

成長の過程で欠陥がみられるなら、リスクヘッジで廃棄することに感情の挟む余地が生まれないことも利点かと思います。

字面で行くと気味の悪いようにも思えるかもしれませんが、なんのことはなく、

社会の歯車がより歯車らしくなるだけのことです。

勘違いしがちなのは、人間が生きていることそのものに価値があるのではなく、

生きている上で何をするかに価値があるということで、

その点でいえば、何をするかがあらかじめ決められていて、

それに合わせてデザインされる人間は、きっと全員が価値のある存在となるでしょう。

加えて、価値のある人間たちが、自分たちを作った社会や世界のために、

己の存在意義をかける姿はおそらくキラキラしていることでしょう。

キラキラが好きな方々、見ていますか?

ここにあなた方の好きな世界がありますよ。

この世界の中では自分の使命さえ全うしていれば、

それ以上に他人と関わりあう必要もなく、おそらく幸福でしょう。

 

現代の、恋愛に対する幻想を引きずった観点では、

「大トロを知らずにツナで満足する」ことがまるで悪であるかのようですが、

そもそも大トロなどという部位は江戸時代には

「猫またぎ」=猫もその上をまたいで見向きもしない

とまで言われた部位であり、ただのゴミでしかなかったわけです。

ゴミをありがたがるのは一種の享楽的趣味と言えなくもなく、

ゴミに価値をつけるのは経済的・商業的に利となる行為ではありますが、

ツナで満足することもまた悪いことではないでしょう。

ツナで満足することなど、

自らのさもしい根性を「美徳」と言い換えて

ありがたがる日本人の得意技ではありませんか。

そして、そんな犬畜生にも劣る日本人から先に、

生物の本能から逸脱して、

機械のように生み出されて、機械のように生き、機械のように死んでしまえばいい。