徒然すぎて草。

ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん

ドーナとかいう疑似アイドルを持った女・その1

あと2週間も経たないうちに新弾が発売されるようで、

続々と新しいカードの情報が流れてきています。

というわけで、今回は「しょーちゃん、バトルしようよ」でおなじみの

ドーナについての記事になります。

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16弾を経た〈あーや〉デッキの軽い考察

皆さんはもう今日発売の「カードゲーマー」を手にしましたか?

私は強力そうに見える黒アーツ《デッド・ゲート》を、

「これ使い道あるんだろうか」とぼんやり考えつつも買っておきました。

何が値上がりするか分からないからね、しかたないですね。

 

今回は色々と公開されて強化が最も(?)見込まれるあーやデッキについて。

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小説を書き直すということ

以前に書いた小説を、キャラを削ったり、より物語のつじつまがあい、面白くなるような演出を試みてはいるのだが、なかなか様にならない。

明らかに書かれている文章に、熱がこもらない。

熱、というより情念、さらにいえば呪詛といった方が近いのかもしれないが。

思うに、感情というものは細々ながらも燃やし続けることはできるのだろうが、

一度その火を消してしまうと、二度と同じ火を燃やすことはできないのではなかろうか。

船を解体して、そっくりそのまま同じ船を作り上げたところで、

果たしてその船が元の船と同一であるかといった問いのようなものだ。

私の頭の中にある記憶や、コンピュータのメモリにある記録を参考にしながら

小説を書いたところで、それに果たして同じだけの熱量がこもるだろうか。

同じ時が二度と訪れないのと同じように、まったく同じ感情もまた二度と訪れない。

以前書いた物語にかける感情という面において、私は過去の私とは異質なのだろう。

人間の価値がラブドールにも劣るようになる世界

バーチャルセックスの世界はここまで進んでいるんですね

forbesjapan.com

記事の概要:

セックスの風景を映し出すVR技術とセックスドール、

人間が快楽とする現象を学習するAIをつなぎ合わせた技術による

バーチャルセックスの初号機・テレディルドニクスが来年発売予定。

 

新しい技術は軍事かエロが真っ先に取り込むというのがお約束ですが、

VR・AI技術もその例に漏れません。

私は、この二つの技術をエロ方面に使うということは、

本質的に「理想の人間を作る行い」であると認識しています。

好みの容姿に好みの中身、果たしてそれを満たす人間がリアルに存在するでしょうか、

という話から、(ひょっとすると中身は求められないのかもしれませんが)

それが人工的に作れるとなったら、

「コミュニケーションを取る対象」としての人間の価値はゼロになるよね、

というお話に完結すると思います。

そもそも、(経済的な話を抜きにして)所帯を持つべき年齢の

人間がソシャゲに映し出された紙芝居的キャラクターに目を奪われている、

という状況自体が、

コミュニケーション対象としての人間の価値を否定しているといえなくもなく、

(紙芝居に人間が劣るんですよ? 笑っちゃいますよね)

テレディルドニクスの技術はそれをさらに加速させることになりそうです。

「本番」をするのに何万も払う風俗や割り切り業者と違い、

この手の技術は一度買ってしまえば減価償却を行っていくだけですからね。

しかも交渉コストがかからない上に「ハズレ」がないのですから、

人間の価値は本当になくなるかマニア向けになりそう。

 

VR風俗なんてものが興るとしたら、風営法的にどうなんでしょうね。

おそらく、暴対法の網を潜った「半グレ勢力」みたいな扱いになって

法規制が出来ず、技術に疎い国会のお偉いさん方は状況を把握できず、

法制定及び改正にかなりの時間がかかると思えるのですが。

 

あとはエロゲ界隈。

すでにVRエロゲはリリースされていますが、

感覚にまで影響してくる作品はまだなかったはず。

しかしながら、ただでさえマシンスペックの向上で

製作費がかさみまくっている企業側からして、

VR方面に投資する資金的体力のある企業が果たしてどれくらい存在するのか、

という話も。

 

未来の世界は夢いっぱいですね。

一瞬の気の迷いで作った✝CCM✝型ピルルク

今のピルルクの、

2枚使って相手の手札1枚を刈るというようなムーブが嫌いだったので、

1対1交換が出来る上に相手の面を開けられるカードを使うデッキを組んでみました。

え? そんなカードがあるかって?

あるんですよ、こ↑こ↓に

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人間の繁殖工場で検索検索ぅ♪

近頃、ウィクロスのモチベ(というかデッキ記事を書くモチベ)があまりないので、

思想記事ばっかり書いていたのですが、その中の一つ、

 

persona-kaza310.hatenablog.com

 コレがなかなかにアクセスを集めていることに気がつきました。

 

さらにアクセス解析をよくよく見ると、検索ワードに、

「人間繁殖工場」

という面白そうなワードがありました。

 

ちょっと気になったので自分も検索してみることに。

すると……ヒットしました。

「食糧人類」

という漫画のレポを書いたいくつかのブログ記事が。

www.mangayonda.xyz

どうやら、人間が家畜同然に飼われていて、

文字通りの「食糧」にされているという世界観のようです。

 

私が人間を工場で作ってしまえと論じたのは、

あくまで人間の、人間としての幸福を思ってのことですが、

この「食糧人類」について言えば、

人間は人の形をしているただの肉に過ぎないようです。

人間を肥え太らせる手法はフォアグラの製造過程のようであり、

なんというか、合理的な気がしますね。

一方人間を産ませるのに発情剤と排卵剤を用いるのは、

物語に華を添えるためなのでしょうね。(あんまり抜けるシチュじゃないんですけどね……)

 

人間の絶対数を増やす手段が用いられている・描写されているSF作品は数多く存在します。

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その中でもオルダス・ハクスリーという作家が書いた

すばらしい新世界」という作品には、

「ボカノフスキー法」と呼ばれる、

1つの卵子から最大で96つ子を作るための人間の大量生産法が描かれています。

当作品の世界では、人口と社会を維持するべくこの技術が使われ、

生み出された人間は生まれながらに階級分けされ(カースト制度みたいな)、

それぞれの階級の暮らしに幸福を覚えるように刷り込み教育が行われています。

 

この人間の大量生産と刷り込み教育は、社会の維持のために、

人間としての幸福を保証するところに重きが置かれているので、

「食糧人類」に描かれた人間の量産とはちょっと毛色が違いますけどね。

 

100年ほど前にかかれた小説ですが、今読んでも十分に面白い作品なので、

人類の大量生産に興味を持った方は、

「食糧人類」と一緒に探してみてはいかがでしょうか。

青春未だ来たらず

坂口安吾という作家はその昔、こう書いた。

「青春再びかえらず、とはひどく綺麗きれいな話だけれども、青春永遠に去らず、とは切ない話である」

安吾はこの後に、永遠に去らない青春にはうんざりする、癒しようのない袋小路のドン詰まりと評しているわけだが、

イザ私のこれまでを振り返ると、青春というものがあったか疑わしい。

小学生を青春として振り返るのはなんだか切ないを通り過ぎて情けない気分になるし、

中高時代はこれはこれで、それなりに殺伐としていた気がする。

なにしろ学年の3分の1ほどの人間をいけ好かないと思い、

 参考書を新聞紙代わりにして害虫を叩き殺すくらいの気分でいたからだ。

男子校で、まして合コンをセッティングするような友人などいるわけもなかったから、

浮ついた話は一つもない。

 大学時代もその延長といった様子で、中高時代となにが変わったかといえば、

要らぬちょっかいを出してくるバカがいなかったくらいのことで、

叩き殺すべき敵がいなかった分、張り合いを維持するのに苦労した。

 

こうして思い返せば敵意と憎悪をたぎらせた年月が

青春と呼べなくもないのだが、これは決して「あの頃はよかった」

と呼べる類のものではない。

思い出せば腹の立つことばかりである。

 

逆に、あの頃はよかったと言える時期がないわけではないが、

その時期は人間よりも書物に向かっていた時期だったので、

なんというかこれも世間一般の青春とはかけ離れている気がしないでもない。

 

こうなってくると青春とは何を指すのかから定義しなければならないわけだが、

おそらく、私の根底にあるのは、

世間様の掲げるキラキラした、

若さを礼賛した、エネルギーに満ち満ちた10代半ばの時期への憧れである。

しかし、その適齢期を敵意と憎悪で過ごしたものだから、

それを色々と拗らせて非常に面倒なことになっているし、

青春など未だ来ず、来ないものであるとあきらめている節さえある。

諦めだけならまだいいが、キラキラしたものへの憎悪を抱いてしまうと

もはや救いがない。

とはいえ、誰もが教科書通りの青春を過ごしているわけではない、

そして、まやかし・幻想であることも理解しているつもりではある。

結局、青春未だ来たらずとする私の感覚は、

得ることのなかった実感によるものにすぎないので、

全て忘れてしまえば楽になることは間違いないとも思える。

 

ところで、私の抱く青春のイメージは

恋愛的要素と切っても切れない関係にあるわけだが、

コレが全く自分のものとなる気がしない。

というのも、誰のことも好きになる気がしないのだ。

以前、親に「あんた、誰のことも好きにならないんでしょ」

と言われた覚えがあるのだが、その通りで全く笑ってしまう。

好きになった誰かのために頑張るという概念がピンとこず、

むしろ誰かを憎み、いつか殺してやるくらいの気概でないと力が出ない。

 

中高の頃は特定の誰かを憎み、大学に上がってからは

対象がさらに広がって、希薄になった気がする。

しかしこんなものは中二病患者が

「皆死ねばいいのに」というのと変わらない。

青春は来ないが中二病に限りなしとは、なんとも救いがたい話ではある。