徒然すぎて草。

君に顔はいらない。

2018年8月31日

9月2日だというのになぜ私は8月31日の日記をつけているのか?

その答えは、その日が飲みの帰りであったことと、昨日の私がゲームにかまけていたことが原因である。

しかしながら、あの日は普段通りではないことがあったので、その備忘録としてこの記事を書く。

大学時代の友人と飲みをやった。

彼(Aとしよう)は2年の時のゼミ仲間で、柄にもなく教授をリスペクトし(本当に尊敬していたのだ)思い出せる限りの中で大学生活が一番楽しかった頃の友人だ。

その彼と2年ぶりに飲み、いくつか、「これは覚えておこう」という言葉をかけられたので、振り返りと共に記しておく。

 

A曰く、私のことはAの別な共通の友人(Bとする。これも2年の時のゼミの仲間だ)とAが飲んでいるときに話に上がってくるそうだ。

その話に上ってくる私の評価は「見た目がいいのになんか残念な奴」だそうである。

正直なところ、私はよくこういうことを言われる。そして次のようにも言われる。

黙っていればそれなり(Aは女形の役者のようだと言っていた)なのだが、なんだか残念な感じがある、と。

 結構色々な人に言われ、「覇気がない」とか「髪型もうちょっとがんばったら」などと言われるのだが、覇気などどう出せというのかという話だし、髪型に関しては美容院に行ってみたことがあるのだが、1000円カットと同じくらいの感慨しかないのでとても馬鹿々々しかった。

Aによれば、私の面白さは対面か、私の外見とセットになってこそのものらしく、このブログも面白いことには面白いが、それはリアルの私を知っているからなのだという。

そう来ると、セルフプロデュースする方法は一つしかない。

Youtuberだ。

好きなことで生きていく。確かに素晴らしい言葉だと思う。

だが、Aはこうも言っていた。

「お前が自分で面白いと思って書くところに、お前の面白さは宿らない」

「お前は変人になりたい常識人、凡人だから、変人の土俵で戦おうとすると上位互換に勝てないんだ」

Aによれば、私が普通に、面白くも思わず当たり前のように行う行動に他人から見たクレイジーさが宿るらしい。確かに、我々が狂人を見てどこか滑稽さを覚えることがあるのは、本人はその行為を大真面目にやっているからで、本人がそれを面白いと思ってやっていたら興ざめもいいところだろう。

だから、Aの結論としては、私が面白くも思わないことを嫌々ながら書くのが、他人にとって面白いポイントになる、とのことらしい。自衛隊イラク駐屯地レポートのようなものか、と私が言うと、彼は、いい喩えじゃないか、と満足気だった。

また、文体についても上の性質から口語体の文章より、文語体に近い形で書いたらどうか、とのことでもあった。

そのため、この記事はそういう方向性で書いている。

さて、Youtuberの話に戻るが、自分で面白いと思わないところを動画にして編集するのはかなり苦痛を伴うのではなかろうか。自分でそれをやっているところがどうにも想像がつかない。

誰か自分の他に一人でもついてくれたらと思わなくもないのだが、Aは「お前をプロデュース出来る自信があるけど、お前といると情報量が過多で怠いからやらない」とのことだった。人のことだと思ってずいぶん気軽に言うものだな、と思ったが、他人の人生など仕事でもない限り知ったことではないので、もっともである。