徒然すぎて草。

君に顔はいらない。

大学の同窓会に行った話

友達が少ないのに大学の同窓会に行った

先日、大学公認の同窓会なるものに行ってきた。

新しい知り合いを作りがてら、名刺でも交換出来ればな、くらいの感覚でいた。

ところが、いざ行ってみると、同窓会の場に名刺を持ってきている人間の少ないこと少ないこと。

およそ3時間程度を、知らない人間やほぼ接点のなかった人間との世間話に費やし(二次会は友達の友達、くらいの関係の人と話をしていたが)、そうして得られた名刺はたったの4枚だった。

その話を職場の人にしたら、「地獄のような時間だな」と言われ、その一瞬はよく意味が分からなかった。

だが、よくよく考えたら「新しい人間に会うために同窓会に行く」という行為が全くもって謎である。

行為のちぐはぐさで言えば、「彼女を作るためにおっぱいパブに行く」くらい謎だ。

そりゃ女の子との出会いはあるだろうけども、という話になる。

おっパブの女の子を彼女に出来るかと言ったら、まぁ脈はないだろう。

実際、同窓会の収穫もそんな感じで、収穫と呼べる収穫は名刺4枚と下記の記事を読んでくださっていたフォロワーが増えたこと、そしてうっすい繋がりのFacebookの友達が増えた程度である。

↓問題の記事

persona-kaza310.hatenablog.com

 

大学時代の人間関係→社会人生活へのインポート

さて、同窓会の結果はさておき、同窓会の間に感じたことでも書き綴っておこうと思う。

今回、あの場に居て一番強く感じたのは、

同じ大学の出身者が多くいる企業に就職すると、それまでの人間関係が多少なりとも持ち越される

というものだった。

私の行っていた大学を卒業した人間が行く企業は大抵、以下のパターンに分けられる。

・商社

・銀行・証券の営業

・銀行・証券系のシンクタンク

・マスコミ系

・(少数だが)SE

この中の赤字で書いた商社と銀行というのが特に、採用人数が多いこともあっていわゆる学閥なるものを形成するようで、同じ大学出身者同士の結びつきが強く、同期はもちろんのこと、先輩後輩の関係まで持ち越されて、下の立場の者はさらに下の立場の人間が出来るまで、飲み会の幹事をやらされるのだという。

(サンプル数が数人なので、どこもかしこもこうした文化を持っているわけではないのかもしれない)

私はというと、就活で銀行などは受けたもののことごとく落ちて、今はITの方で働いている。上下の立場で飲み会の幹事をやらされることもそうないので、上記の文化とは完全に外側のポジションにいる(と思う)。

そうなってくると、私が経験する社会人のはじめの数年と、彼らの経験する数年は異質なものになると言えはしないだろうか。

これはどちらがより優れているということでもなくて、単純にそれぞれの環境で育った人間がその後どういう生き方をするか、という問題に過ぎない。

彼らは上司部下・先輩後輩という人間関係の中で、より強かに生きる術を学び、時に明文化されない組織の論理に身をやつすことがあるかもしれない。

私はといえば、それなりにフワフワとモノをやらせてもらいながら、ふと大事な時に「君、幹事くらいはちゃんとやろうよ」などと言われることになるかもしれない。

人間は共通の幻想を抱いている者をより仲間だと認識しやすく、共通の幻想を抱いていると見せるためには、その幻想に身を捧げていることを態度で示すことが手っ取り早い。

たまに身を捧げているのと、せっせと事あるごとに身を捧げているのとではどちらが仲間だと認めてもらいやすいかと言えばそれは間違いなく後者である。

さらに言えば、会社に所属する人間というのは根本的に、組織の力を借りなければ自立が出来ない弱い存在であり、その弱い存在がどうやって組織に生かしてもらうのかと言えば、それはコミュニケーション力がモノを言う。

コミュニケーション力とは、単に口で上手いことを言うだけでなく、表現方法に関わらず相手に伝えるべきことを伝える能力である。だから態度で示せるものがあるなら、常日頃そうしたことに慣らしておくのも決して悪いことではないだろう。

ただし、それは心身が壊れない範囲で、という注釈がつく。

 

二次会でしこたま飲まされていた商社の女の子

二次会で友人とさらにその友人と話していて、ふと、周りが気になった。

というか、気にせざるを得なかった。

というのも、おそらくは運動部の部員であったろう一団が、童謡「さんぽ」のフレーズで飲みのコールをしていたのだ。

かなり謎な文化だと思ったがそれはそれ。靴下が文化なら足袋も文化である。でも元気なのは分かったから少し静かにしてほしい。

気になったのは男女問わずめちゃくちゃ飲まされていたことだ。

特に同窓会の幹事をやっていた女の子は元々ノリがいいと知られていたのだろうが、飲まされ方が尋常じゃなく、最後の方は階段に座り込んでいた。

遂には部員が止めたタクシーに乗って夜の街に消えて行ったのでその後は知らないが、あの大学のメンバーなのでどうせ大したことは出来ないだろう。というかそうであることを願う。

これを見て思ったのは、明文化されていないルール(その場のノリとかそういうの)が強い力を持つ組織に居ると、時に自分のキャパシティを超えて、組織に身を捧げるような行為を強要されるリスクがあるということだ。

そうした組織が、私のいる会社と彼らの行った会社のどちらに多く見られるかなどは一目瞭然で、出世競争もそうしたリスクやストレスにどれだけ耐えられるかの勝負になることは明白である。

リスク・ストレスへの耐性を持つこと自体は全く悪いことじゃないし、それで出世をして判断を下す立場に上るなら、それは価値のある能力の一つだ。だが、それに耐えられず脱落した者は悲惨である。なぜなら、脱落者はそうした外的な刺激に再起不能かあるいはそれに近いレベルで曝され、耐えきれなくなった段階で日陰に打ち捨てられるのだから。

勝つ自信があって覚悟を持ってその道を進むのなら止めはしないが、そんな覚悟を持って生きている人間など、彼らのうちどれほどいるのだろう、などとふと思ってしまう。

私は常々、この世で成功する秘訣は、「他人から不平を言われない程度に他人の努力の上前をピンハネすること」だと思っているが、思っていることと、それを実践できるかどうかは全く別の問題だ。(ちなみに、今、この国の若者の賃金を巡るあれやこれやは結構ギリギリなラインを攻めてきていると思う)

 

仮に二次会で潰されたとしても、知った仲の元部員がタクシーでどこかへ連れて行ってくれるかもしれない(その先がどうかは知らないが)。

だが、心身が壊れるまで何かに曝された人間を、何が救えるというのか。

 

何はどうあれ、誇れる生き方を

ここまで、たかが大学の同窓会に行った程度でつらつらとモノを語ってしまったが、ここに書いたことが真理かと言えばそうではない。

せいぜいが私のお気持ちをつづった程度のことなので、そういう考え方もあるよね、程度に受け流して、それでも何か感じるところがあってあなたの何かを変えたなら、それほど幸せなことはない。

結局のところ、私がどうしようと、彼らがどうしようと、本人がそれでいい、と思えること、大事なことはせいぜいこれくらいしかない。

今の私はと言えば、覚えること、やること、手間の割に、給料が見合っていない上に社長・経営陣からは甘く見られているようで癪に障る仕事をやっているが、

明日から私やめますと言えば、プロジェクト丸ごとが立ち行かなることが分かっているので、そうした精神状態で仕事をするのは案外バランスが取れているようで、それなりに楽しい。

後は数年後、「あんな経験して、役に立ったな」などと言えていれば最高なのだが、それはこれからの話になる。

この記事を読んでくださったあなたも、組織との関係性がどうあれ、幸せに生きられればいいと願っている。