徒然すぎて草。

ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん

眼鏡のオタクがコンタクトに挑戦しに行った話

オタクが眼鏡を外す日

今日、人生で初めてコンタクトレンズなるものを眼鏡屋に行って試してきた。

この世に生を受けて二十余年、

「目の中にモノ入れんの怖いじゃん?」

という理由で敬遠してきたのだが、

「風見君、眼鏡かけない方がイケてるじゃん?」

という言葉を受けてちょっと試してみるかなあ、と思った次第である。

我ながらゲンキンなものである。

ふと、眼鏡キャラがそれを外すに当たっていちご100%を思い出したが、

よくよく考えたら眼鏡キャラだった東城は結局、真中争奪戦に敗れたじゃないか

と思い、オレはこの方向性で大丈夫なのだろうかと思わなくもない。

この記事を読んでいる諸兄は4人いたヒロインのうち誰がお気に入りだろうか。

私は、東城綾北大路さつきで迷うところである。

東城はスペックが高すぎて、付き合うには男の方も見合うようにしないと

勝手に男の側が辛くなって関係が壊れるパターンになる気がする。

さつきはグイグイ来てくれるエロい子(真中のことが好きという大前提るにしても)で、

童貞としては理想に近いタイプの女子なのではなかろうかと思うのだが、

なんというか、どちらかの気持ちが醒めた時が恐ろしいのではなかろうかと思う。

また、思うに、真中が西野を選んだのは、

かわいくて、

そこそこ手ごろで、

恋のライバルがいる焦りがあって、

という点に集約されるのではないかなぁ、と思う。

南……? 知らない子ですね……。

 

話がかなり逸れてしまったが、初めて装着したコンタクトレンズの感想は、

「裸眼でちゃんとモノが見えるのって、久しぶりだな」だった。

初めての装着はそこそこ難しく、

応対してくれた、ギャル曽根にそこはかとなく似た店員(以下、ギャル曽根と呼称)が言うには、

「初めての人はコンタクト入れるのに30分とか1時間とかかかる人もいて、

中には『私には無理!』って言って帰っちゃう人もいるんですよ~」

とのことだった。

へぇー、そんなもんなのか、と思いながら頑張っているとギャル曽根が、

「お客さん、目が大きいから多分大丈夫です! 頑張ってください!」

とか言うもんだからこっちもなんだか気分がよくなる。

オレは目が大きい! 誰がなんと言おうと目が大きいんだ。

結局、20分かそこらで両目をつけることに成功し、

「なかなかこんな短時間で付けられる人いないですよ~!」

ギャル曽根がダメ押しで褒めてくるので、気が良くならないわけがない。

頻繁に付けるかどうかはおいておいて、コンタクトレンズはここで買おう、

と思った瞬間であった。

 

よかったらコメントにいちご100%のヒロインで誰が一番好きだったか書いていってください。

それでは、また。

ふくらはぎの筋トレは冷え性を救うかもしれない

ある日、はてなブログスマホアプリからこんな通知が届いた。

「○○さんがあなたの半端な筋トレは冷え性を救わないにコメントを書きました」

これを見た時、あー、こんな記事を書いたなあ、と感慨深い気持ちになった。

なにしろ2年前の記事である。このブログ、なんともう2年もやっているらしい。

 

persona-kaza310.hatenablog.com

この記事を要約すると、

焼きたてジャパンを読んだ少年が、冷え性改善のために筋トレを志したけど、

結局冷え性は治らずに腹筋が割れただけだったよ、というものである。

相変わらず、冷え性は治っておらず、最近は寒くなってきて手先も順調に冷たくなってきている。

そんな折だ。↑の記事にコメントがあったのは。

よく見ると、1年前にもコメントがされていた。しかも結構重要そうなことが書いてある。

しかし私は見逃していたらしい。

社会人生活1年目の闇を抱えていた時期ゆえだろうか。

しかし、仕事をしていようが何だろうが、手先は冷える。

コメントをしてくださった方々は、一様に次のようなアドバイスをしてくれていた。

ふくらはぎを鍛えましょう。

はて、なぜ手先の冷えを改善するのにふくらはぎなのか。

焼きたてジャパンの河内は上半身のトレーニングで太陽のガントレットを身に着けていたじゃないか!

と思ったので、自分でもちょっと調べてみた。

そもそも冷え性は筋肉不足に由来するとのことで、

特に下半身に行った血液を再度、上半身へ送り出す機能が弱ければ、

それだけ全身の血行が悪くなり、血が廻らなければその個所は冷える。

そのため、ふくらはぎと太腿は血液を全身へ送り出すための

第二の心臓とでもいうべき役割を担っているのだという。

つまり、ふくらはぎを鍛えれば冷え性は改善される!

やったぜ。 

 

コメントをくださった方々、ありがとうございます。

これから数か月ほど、電車の中で立ったときとかにふくらはぎの筋肉を鍛えることに専念しようかと思う。

その結果については、またブログで発表することにしようかと思う。

 

サピエンス全史第2部(下)

 第2部はホモ・サピエンスが農業革命を経ていかに変化したかを語る章だ。

前回はこちら↓

 

persona-kaza310.hatenablog.com

 個々人ではさほど得をしないが、全体としては益をもたらした農業革命の中で、人類は次の問題に直面した。

それは、増えすぎたメンバーをいかに効率よく管理するかという問題だ。

これに対し、人類は次の2つの解決策を生み出した。

  1. 行動の規範となるルールの発明
  2. 文字、書記体系の発明

人員が増えれば、それを取りまとめるルールが必要になるし、ルールの正確性を期すためにも、何をしたのかを記録するためにも、後に残る形でしっかりと記録しなくてはならないというわけだ。

この発明により、人類は一定のルールに則って協力することが可能になった。

また、書記体系がルールを不変のものとすることで信用を加算し、かつ活動をする中で蓄積される膨大な情報を効率的に処理することが可能となった。

 

だが、人類が生み出したのは明るい概念だけではない。

集団が形成されていくにつれ、差別やヒエラルキーが現れるようになった。

一度現れたヒエラルキーは社会規範の一側面となり、それを逸脱することはひどく困難だった。そうなると、ヒエラルキーはさらに強固なものになり、結果的に差別や貧困に苦しむ大多数のヒエラルキー下層者と、それらから搾取する少数のヒエラルキー上層者という関係性が生まれることとなった。

 

感想

この本の感想というか、この形式でブログ書いていることに対してなのだが、なんだか飽きてきた。

本書の根幹は「存在しえない概念を生み出して信じて協力した人類スゲー」であり、それに沿った話が時代ごとに話が進んでいく形だ。

なので、章を読み進めて行っても異なる側面から結局は同じことを見つめ、同じ結論を得る羽目になる。

同じ物事を異なる側面から見るの面白いじゃん! という意見はあるだろうが、ブログという短い文章でまとめることを求められる形式だと結構つらい。

愚痴になってしまった。

そのため、次回からガッ、とまとめてお送りするかもしれません。

それでは、また。

サピエンス全史第2部(上)

さあ、またサピエンス全史だ。

余談なのだが、会社の昼休みにメモを取りながら読んでいたらかなり注目された。

私のメモの字の汚さにさらに驚かれたが、自分で読み返してみるとところどころ判読不明な個所があって笑ってしまった。

 

サピエンス全史の第2部は大まかに、農業が人類にもたらした影響と、農業で増えた人類が何を生み出したかについて語っている。

今回は、前者についてまとめる。

 

農業が人類にもたらしたもの

実のところ、個体のレベルで見ると、農業を始めた当初の人類にもたらされたメリットはほぼ無かった。

  • 栄養状態は量・質ともに狩猟採集民の頃より悪化
  • 運良く豊作でも、周囲からの略奪リスクが高まる
  • 過酷な重労働でヘルニアなどの疾患が現れる
  • 定住するようになったことで伝染病リスクが増大

 

ではなぜ、これだけのデメリットを負いながら人類が農業を選んだのか?

その理由は以下のようなものだと書かれている。

  • 努力すれば報われる(食料が安定して得られる)という未来への期待
  • 農業を数十年続けていく内に狩猟採集民としての暮らしを忘れた

 

しかし、農業が何のメリットももたらさなかったかというとそうではない。

先程、農業は個体のレベルではメリットをもたらさなかったと書いた。

個体の逆、つまり種のレベルであれば確かにメリットのある出来事だったのだ。

 狩猟採集民であった頃は、食料を得るために能力がなければ生き残ることが出来ず、個体数が少なかった。

しかし、農業に従事してからは、確かに個々人の栄養バランスや暮らし向きは悪化したが、最低限食いつなぐことのできる人口は増大した。

人口が増大するということは、それだけ種としての遺伝子の多様性が増えることになる。つまり、種として成功を収める、ということだ。

この多様性の創出こそが農業革命の肝であったとハラリは語る。

そして、増えた人類が何を生み出したのかについては、第2部の後半で語られることになる。

 

思ったこと:

経済学を勉強すると必ず、集団の最大幸福と個々の幸福のジレンマにぶち当たる。

各々が自分の幸福を最大化しようとすると、総量で見た時の幸福が減少してしまうというものだ。

こうした関係性は、農業革命が個々にとっては殆どメリットを与えず、しかし種としての成功をアシストしたという言説に色濃く表れているように見える。

それにしても、出来るだけ多くの人間を生かそうとすると、大半の人間は死人のようになる、とはなんと皮肉な話だろうか。

こんなことを考えるとふと、昔読んだ↓の記事を思い出す。

gigazine.net

興味のある人は読んでみてほしい。

ディストピアに惹かれる人であれば、きっと気に入るはずだ。

それでは、また。

サピエンス全史第1部(2)

前回、サピエンス全史という本の解説記事を書いたのだが、ちょっと反省しなければならないことがあった。

 

persona-kaza310.hatenablog.com

 この記事、実に3000文字近くあり、非常に長いのだ。やっている本人としては大学のレポートをまとめているみたいで楽しかったのだが、今の私にはもはや尊敬できる大学の教授はいない。

いるのはこのブログを見てくださる読者の方々のみなのだという事実を、もう少し直視しなければならないらしい。

と、いうわけで、今回は短めに行こうと思う。

 

狩猟採集民族としての人類

第1部後半の趣旨はこうだ。

農業を始める前、狩猟採集によって生きていた人類は果たして、どのように暮らし、文化を持ち、地上にどのような影響をもたらしたのか。

 

文化、とりわけ精神文化の面で言うと、分かっていることは殆どない。

というのも、この頃は文字はおろか、後のために何かを記録する技術すら発明されていなかったからだ。

 

だから、狩猟採集民だった頃の人類について知るには必然的に、物質的な側面に依ることになる。

現代人からすると考えにくいことだが、彼ら狩猟採集民の生活は次のような負の側面はあったものの、ざっくり言うと豊かであったらしい。

負の側面:

  • 暴力による横死
  • 自然の厳しさ故の欠乏
  • 生活に協力が求められるが故の、役に立たない・協力できない人間への排斥

正の側面:

  • 豊富な種類の食物由来の、豊富な栄養素(栄養の質で言えば農業時代とは比べ物にならないほど高い)
  • どれか一つの食べ物がダメになっても他のもので補うことが可能
  • 食物を探すために発達した肉体と知識(狩猟採集民だった頃の脳は現代人よりも大きいとすら言われている)

 

人類がこの地上で何をしたか

知恵やコミュニケーション、火で力をつけた人類はこの地上で何をしたか。その答えは次の通りだ。

通りがかる地域の大型動物を狩りつくした。

食料や毛皮を求めて人類が目ぼしい動物を狩り始めると、大型動物は繁殖のスピードが非常に緩やかなので、やがて狩りのスピードが繁殖を追い越してしまう。

こうしたサイクルを続けていくことで、体長が50センチメートルを超える大型の動物は、認知革命の頃には200属いたにもかかわらず、現代では100属まで落ち込んでしまったのだ。

 

まとめ・思ったこと

リョコウバトの逸話なんかを見る限り、人類って残虐で頭が足りないのだなァ、と思ったりしたものだが、祖先もあまりやっていることが変わらなかった。

また、狩猟採集民の豊かな暮らし、という記述を見ると、じゃあなんで農業なんて始めたんだ? なんで戻らなかったんだ? という疑問がわいてくるが、それは第2部で語られるらしい。このブログ記事を読んで、こんな内容なのね、と思って興味を持ってもらえたなら幸いだ。

それではまた、次の記事で。

 

サピエンス全史 第1部(1)

ブログをやり始めた当初は「書評でもやろうかな~!」と思ったのに全然やっていないのはどうしたことだろう。

理由は単純、面倒だからなのだが、そうはいっても他人が代わりにやってくれるわけでもないので、やはり自分で書くしかない。

というわけで、今回は最近読み始めた「サピエンス全史」の上巻、第1部の前半に関して、どういったことを言っているかとどう思ったかを綴っていく。

なぜこの本を選んだかと言うと、「今を生きる全ビジネスマン必読の新しい教養書」なる”強い”ワードが書かれていたからである。

 

人類史における「三大革命」

 ハラリはまず、人類文化の発展が紡いできた歴史の中で、3つの大きな革命があったと主張する。人類が他の動物と一線を画し、文化の発展、すなわち歴史が始まるきっかけとなった「認知革命」、その歴史を加速させた「農業革命」、そして「科学革命」である。本著はこれら3つの革命が人類に、そして地上の生き物たちにどのような影響を与えたかについて記述している。
 第1部では全4章構成で認知革命について扱っており、この記事では前半の第1章・第2章が何を論じているか、そして私がどう思ったかについて記述する。

 

人類はどこから来た何者か

 学者の説では、人類は250万年前の東アフリカでアウストラロピテクスから進化して生まれた。その後、今から200万年前にアジア・ヨーロッパ・北アフリカへ版図を広げ、それぞれの環境に合わせて進化していった。そして、今から1万年前になるまでは、この地球上にホモ・サピエンスの他に、ホモ・ルドルフェンシス、ホモ・エレクトスネアンデルタール人などのいくつかの人類種が暮らしており、1万年前より後ろの時点では何らかの理由により、サピエンスが現代のようにこの地球に生きる唯一の人類種となった。

 

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 それぞれの人類種には体格などの特徴が見受けられるものの、大きな特徴点がある。それは、巨大な脳を持ち、直立二足歩行をするということだ。この二つの特徴によって、人類は高度な思考力を獲得し、自由になった手で精巧な作業をすることが出来るようになった。その反面、脳はその燃費の悪さから、エネルギーのリソースを体の他部位から奪い取り、結果として筋力が弱くなった。また、巨大な脳を支えながらの二足歩行は肩こり・腰痛という、四つ足の動物では経験することのない苦痛を人類に課した。

この2つの特徴が出産に関して与えた影響はとりわけ大きい。というのも、直立二足歩行によって女性の骨格は以前よりも狭くならざるをえなくなり、同時に発達した巨大な脳が出産の際に大きな障害になる。そこで、人間は子供を成長する前の早期の姿で出産することにより、このジレンマを乗り越えた。しかし、生後すぐに動けるようになる他の哺乳類の動物とは違い、人間は自分で生きて行けるようになるまでに、長い時間をかけて年長者の世話になる必要がある。しかし、この手間のかかる出産と子育てこそが、人間が社会性を育むきっかけとなった。

 

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 人類は巨大な脳と精巧な動きが出来る手を持ったことで、道具の作成、高い学習能力、社会構造を手に入れ、40万年前には火をコントロールできるようになったことで更なる飛躍を遂げた。火は光と熱の源となり、武器となる。また、火を使って調理をして食物を消化しやすくなったことで、食事に要する時間を削減すると共に、脳と同じくエネルギーのリソースを食う腸を短くした。腸が短くなり、エネルギーが他のところに回せるようになったことで、人類の脳は更に進化したのではないか、という言説もある。

 

 15万年前の人類は、火の恩恵に浴していながらその勢力は未だ大きくはなかった。これは現生人類に連なるホモ・サピエンスも例外ではなく、この時点ではアフリカ大陸の片隅に細々と暮らす存在に過ぎなかった。学者によれば、およそ7万年前にアラビア半島に広がり、そこから短期間でユーラシア大陸全土を席巻したという。

 

この時、ホモ・サピエンスが移住する前に定住した他の人類がどうなったかについては、2つの学説が存在する。1つは「交雑説」というもので、ホモ・サピエンスが他の人類種と交配し、現生人類はその結果生まれたものだとする説である。確かに、現生人類の一部には、過去に生きていた他の人類種のDNAを持っている人種が存在するが、その交雑の割合は数パーセントにすぎず、部分的に正しいという程度にとどまる。

 

それでは、いかにして他の人類種が消えてしまったのかについては、「交代説」が答えを提示する。これは、他の種が何らかの理由でゆっくりと死に絶えてしまった結果か、もしくはホモ・サピエンスが他の人類種を大量に虐殺するなどして、地上に君臨するようになったという。

 

いかにしてサピエンスは栄えたか――認知革命

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 なぜ、ホモ・サピエンスだけが地上に生き残ることが出来たのか。その答えは言語・認知的能力に起こった革命的現象にある、とハラリは論じる。言語自体は人類に限らず、単純なパターンではあるが動物も持っている。それでもなおサピエンスの言語が特別な理由について、ハラリは2つの学説を提示している。まず、膨大な表現パターンを持っている点。もう一つが、噂話をすることによって、より強固な協力体制を敷くことが出来る点だ。

 

しかしながら、ハラリは自説として、ホモ・サピエンスの言語が持つ真の特徴は、「まったく存在しないもの、見たことも触れたこともないものについての情報を伝達する能力」にあると語る。研究によれば、噂話によるコミュニケーションで統制の取れる集団の上限人数は150人と言われている。

しかし歴史は、人類が150人の上限を超えて協力体制を敷けることを示している。太古の都市国家しかり、中世のカトリック修道会しかり、近代の国民国家しかり、現代の企業しかり、人類はその成員がおそらく、「共通の神話・ストーリーという虚構」を伝達し、それを信じることによって、互いの顔も知らない人間同士がこれらの組織を運営したり、取引をしたりすることが出来た。

 

 また、人類が生み出す虚構は柔軟性を持つ。チンパンジーは生物学的に父権主義的な社会を構築し、それが変わることはない。しかし、人間は保守的な家庭で育てられながら、大人になってリベラルになることも出来るし、資本主義社会で育った人間が社会主義イデオロギーに染まることも出来る。

 

思うこと

 ハラリ氏はどうやら、人類の発展は虚構を生み出し、それが信じられるよう意味付けすることに裏付けされてきた、というのが説の根幹にあるらしい。読む限り、本の中では150人を超えた協力関係の構築をするにあたり、共通の神話を信じることが役に立ったというのは「おそらく」というレベルで留められている。こうした面から、神話が実際に役に立ったかどうかの因果関係は一概には言い切れないものを感じる。

 

とはいえ、現に我々は巨大な組織が運営されている様を目の当たりにしているので、そこに何らかの引力が働いていると見るのは自然な気がするし、行動の種火となる思想の部分に、修道会で言うところの神、国民国家で言うところの国民主権や人権といった概念が鎮座し、それが人々に影響を与えていると見るのは自然なことかもしれない。

 

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 また、今日の我々は、多くの人がそれぞれの主張を振りかざして対立しあう分断の構造を目の当たりにしている(ような気がする)。老人と若者、企業と労働者はハラリ風の言い方をするなら共通の神話を持っていないので到底折り合わない。ツイッター上で社会学者や女性の味方を名乗る人たちは、自分たちの考える正義という虚構をあちこちに押し付けようとして、見当違いな方向に多大なコストを払わせようとしながら叩かれている。

 

 こうした争いは今後も増えるばかりだろうし、今は少し変わった人たち程度で認識されているであろう男女間の社会的再生産に関わるいさかいも、時を経て一般化される可能性だってある。こうなれば人間がその数を勝手に減らし、取り返しのつかないことになるかもしれない。

 

 この虚構同士の小競り合いが数十年前と比べ、随分と多くの派閥がやり合うようになったように見えるのは私だけだろうか。また、小競り合いの頻度が増えているのはどうにも、通信技術の発達によって、人々が触れられ、発信することのできる情報が量・質ともに爆発的に向上したことと無関係とは思えない。

 

もしそうだとしたら、多彩なイメージの伝達と噂話、虚構の伝達能力によって栄えたという我々ホモ・サピエンスが、それによって滅びることになるとは実に皮肉な話ではないだろうか。

 

耳鳴りで耳鼻科に行ってきた話

今週の月曜から、耳鳴りがするようになった。

あくびをすると出る様な、「ゴーッ」という音が、晩と朝にずっとする。

幸い、仕事に出かけた時なんかには気にならなくなっているのだが、寝るときがどうやってもうるさい。

耳抜きをしても少し軽くなったかな、程度には感じるがそれだけで、まともな対処法が見当たらないのがなんとももどかしい。

突発性難聴は2週間以上経つと治らなくなるというから、私は焦って耳鼻科に行くことにした。

聴力検査などなどを行い、先生からは「そのうち治るタイプだと思います」というありがたい言葉だけいただいた。

曰く、私くらいの歳の若い人間が耳鳴りに悩むというのは珍しいケースなのだそうだが、聴力検査や中を見る限りでは器質的な異常は見受けられないとのことで、「星の数ほどある」と医者の間で言われる耳鳴りの原因の中でも、せいぜい思いつくとしたら環境の変化やストレスくらいなのだという。

ストレスならば職場で思いつかないでもないが、なんでよりによって一番リラックスできるはずの自宅の部屋でばかり耳鳴りが起こるのだろうか、全くの謎である。

 

「漢方のお薬出しときますね」と早々に診察を打ち切ろうとする先生に、私は少し食い下がってみた。

風見「先生、実は、毎晩筋トレした後に耳鳴りするような気がするんですけど……

怪訝な顔をしだす先生。

風見「あっ、あの、プランク的なやつです。それってなんか関係ありますかね?」

先生「(プランクのポーズの真似をしながら)……こういうやつですよね? いやぁ、筋トレで耳鳴りは聞いたことがないですね……(苦笑)。でも、筋トレはいいことなんでそのまま続けてください」

風見「あっ、ハイ。ありがとうございます……」

 

かくして診察が長丁場になることも覚悟しての私の午前半休は、医者にかかってもなお3時間残ったのであった。

話は変わるのだが、最近、ジオウが面白い気がする。

当初はビジュアルがアレだったのだが(特にゲイツの武器のひらがなのクソだささが耐えられなかった)、最近はなんだか慣れてきた気がする。

気のせいだろうか。たぶん気のせいだ。